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2019年3月23日土曜日

愛の三界

あなたを乞ふ」で雑に記したことをいくらかもうすこしまとめておこう。

⋯⋯⋯⋯

表題を「愛の三界」としたが、愛だけに限らず、重要な言葉は、まず三界で考えるべきである。それは、ラカンの三界(想像界、象徴界、現実界)でも、カントの三界(仮象、形式、物自体)でもよい。

フロイトは『ナルシシズム入門』でこう記している。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)

この数ページ後の記述も合わせて図示すれば、こうなる。




これが、現在のラカン派においても(ほぼ全面的に)信奉されている愛の基本である。それは前回示した通り。

フロイトは「世話をしてくれる女性(養育してくれる女性)」以外に、「保護してくれる男性」を示しているが、これは二次的な存在である。原初の最も重要な人物は父ではなく母にきまっている。もっとも例外はある。

男性によっての男児の養育(例えば古代における奴隷による教育)は、同性愛を助長するようにみえる。今日の貴族のあいだの性対象倒錯(同性へのリビドー 固着)の頻出は、おそらく男性の召使いの使用の影響として理解しうる。母親が子供の世話をすることが少ないという事実とともに。(フロイト『性欲論』1905年)


さてナルシシズム型とは、自我にかかわり想像界である。

自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

アタッチメント型(愛着型)とは、大他者に関わり象徴界である。これは《両親コンプレクス Elternkomplex》(『快原理の彼岸』)と呼んでもよい。

原ナルシシズムとは、リビドーに直接的にかかわり現実界である(後述)。

以上より(さしあたり)ボロメオの環にて次のように図示できる。




この図で重要なのは、

二次ナルシシズムは原ナルシシズムを覆っている。
原ナルシシズムは両親コンプレクスを覆っている。
両親コンプレクスは二次ナルシシズムを覆っている。

ーーことである。

覆っているとは、それぞれ支配しようとするということである。想像界は現実界を、現実界は象徴界を、象徴界は想像界を支配しようとする。だがそれは今記した循環的仕組みにより不可能である。

愛を歌う詩人たちは、おおむね二次ナルシシズムのレベルでしか考えていない。その詩句の美に酔うことは、蚊居肢子もときに好まないではないが、やはり理論的には大きな欠陥がある。その欠陥は、一流詩人においてさえ見られる。


ところでここからが難解なのである。究極の問いは、原ナルシシズムとはいったいなんなんだろう? である。

これは蚊居肢子もようやく最近なんとかつかみかかってきた話であり、十分に整理して記すことは不可能である。

長いあいだ、フロイトさん何言ってんだろ、と首を傾げていたのである。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

結局、至高のフロイト解釈者ラカンに頼らずには、フロイトの言っていることはわからない。(ラカンを避けることが多い)フロイト研究者がいつまでもトンチンカンなのは必然である。

ラカンは、セミネール10にて、「原ナルシシズム narcissisme primaire」と「自体性愛 auto-érotisme」と「自閉症的享楽 jouissance autiste」を等置しつつ、去勢マテーム (-φ) に触れている。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー己れの身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

先に言ってしまえば、原ナルシシズムの核心は去勢なのである。

とはいえ、すこし廻り道しよう。

フロイト自身、すでに「(原)ナルシシズム的」と「自閉症的」とを等価なものとして扱っている。

ナルシシズム的とは、ブロイアーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

「原ナルシシズム」と「自体性愛」も同様に等置している。

愛Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)

こうして先ず、「自閉症的であり自体性愛的な原ナルシシズム」ということが判明する(フロイト・ラカンにおける「自閉症」と現在の流行病自閉症とを混同しないように注意しよう)。

ラカンの自閉症的享楽とは、フロイト用語を使って言い直せば「自閉症的反復強迫」のことである。ジャック=アラン・ミレールは《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》と言っているが、これはサントームの反復強迫(=リビドー固着による自動反復)のことである(参照)。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Momentは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es にある。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ーー享楽自体が、自閉症的享楽(=女性の享楽)であることはもはや何度もくり返したのでここでは記さない(参照:女性の享楽簡潔版)。


だが、なぜ人間にはこんな身体の自動反復が起こるのか。ーー去勢のせいである。

去勢とは、《全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)のことである。ここでの去勢は、オチンチンをちょん切る話ではまったくない。

原初の乳幼児は母を自分の身体だと捉えている。それが分離されてしまうことが去勢である。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

フロイトは母の乳房を例に出すことが多いが、去勢は乳房に限らない。原母からの分離、これが去勢であり、その外部に離れてしまった身体を愛することが原ナルシシズムである。

ラカンはこの「去勢された外部」を次のように表現した。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a (喪われたモノ)とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
(フロイトの)モノ(原初に喪失したモノ)、それは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

かつまたフロイトの異物に相当する「異者としての身体」という表現もあるが、これも究極的にはモノである。

異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

モノとは不気味なモノでもある。

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、1985)

原ナルシシズムの核心は「去勢された外部」(最も親密な外部)への《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》である。

疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

究極には母胎回帰運動がある。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter ⋯⋯に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがほんとうに母胎回帰してしまったら人は死ぬ。 エロス欲動が原マゾヒズムであり自己破壊欲動であるのは、なによりもまずこのせいである(参照:エロス欲動という死の欲動)。

おわかりだろうか? これが原ナルシシズムであり、事実上、原母コンプレクスである。

愛の起源はここにしかない。

上に引用した『精神分析概説』草稿ーーフロイトの死の枕元にあった草稿であるーーにおける《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》の前後をも引用しておこう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着(アタッチメントAnlehnung)に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ジャック=アラン・ミレールが次のように宣言するのは、今記してきた文脈のなかにある。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

こうして原母との分離による原ナルシシズムが、人間の愛の根源であることが判明したーーであろうか? 

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

例外に思いを馳せるにしろ、出発点はここからである。

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)


⋯⋯⋯⋯

以下、一般教養篇として記しておく。


■リビドー=享楽

リビドーとは享楽のことである。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(Miller, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ーー微妙な差異はないではないが、ここでは割愛(参照)。



◾️リビドー =エロスエネルギー
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


◾️リビドー =愛の欲動
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ようするに、フロイトの最後の言葉、《原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung 》とは、去勢(原母との分離)による愛の欲動のことである。


さらにラカンによるリビドーの究極の定義は、次のものである。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

このリビドーは、永遠の生(不死の生)でありながら、個体の死でもあるだろうことは、「永遠の生ゾーエーの女神」で示した。


死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988)
死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」ーー究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

要するにフロイトのリビドーは基本的には、分子のエロス欲動(愛の欲動)である。もっとも上に引用したように愛の欲動による母胎回帰運動の最終地点は死(母なる大地との融合)である。

ラカンはおそらくこういったことをも視野に入れつつ、分母にある原エロス(永遠の生=死)としてのリビドーをも示しているということになる。いや、上の定義を額面通りとれば、すくなくともそういう見方ができる、とだけ言っておこう。


有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

最後に記しておけば、肝要なのは、フロイトの表面上の叙述に反して、究極のエロスが死であり、タナトスはむしろ死を避ける運動、死の廻りの循環運動だということである。これが現在ラカン派によるフロイト解釈である(参照)。





2019年3月22日金曜日

あなたを乞ふ

「私は愛している j' aime 」とは「私は欠如している je manque de」ということである。(ジャック=アラン・ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

いやあ、じつにいいな、折口的で。日本人は「愛」などという語を使うべきではない。「乞ふ」でよろしい。愛とは乞食になることである。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


「私は愛している j' aime 」=「私は欠如している je manque de」とは、私は去勢されているということである。

ここでの去勢とは、オチンチンをちょん切ることではまったくない。それについては「穴と穴埋め」で比較的念入りに記したので繰り返さない。

その前提で次の文を読まねばならない。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)


もっとも「女性的」といっても、単純ではない。女性の享楽というものがあるのだから。これが愛をはばむ諸悪の根源である→「女性の享楽簡潔版

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象選択 choix amoureux よりも享楽のポジション position de jouissanceが決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることêtre battue, violée を想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女autre femmeだと想像したり、ほかの場所にいるêtre ailleur、いまここにいない absenteと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)

ああ、なんと厄介な女性の享楽! でも男が女に魅惑されるのは、このせいであるところがおおい。「いやよいやよも好きのうち」ってのは、女性の享楽の審級(身体の自動享楽)にある。女たちはエゴレベルではもちろん否定するが、エスレベルではまがいもない真実である。


女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)


一方、男は単純である。男にはよっぼど若くて元気のいいときでなければ、「いやよいやよも好きのうち」なんてのはない。

蚊居肢子が女に惚れるときはだいたい次のメカニズムにある。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)


このミレールの言っている話は、フロイトによる愛の古典『ナルシシズム入門』に則っている。




たぶんここでの問いは、原ナルシシズムとは何か? であろう。それ以外は明瞭である。この原ナルシシズムについてはほとんどのフロイト・ラカン派でさえいまだわかっていない。

でも原ナルシシズムとは去勢への愛ーーかつて幼児が自分の身体だと思っていたものへの愛、つまり原大他者としての原母への愛ーーとその反復強迫(死の欲動)である。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ほかの愛とは、すべて転移である。それが上の図で示した「代理人」の意味である。


■ジャック=アラン・ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』(1992)

精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.

この理由で精神分析において、愛は模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。

それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…

分析家の実践は、愛の自動的性格 caractère automatique de l'amour を是認し利用する。…愛されるためには、分析家でありさえすれば十分である Pour être aimé, il suffit d'être analyste.。

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちに食事を与えている場に遭遇した瞬間だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992)

長くなるが、引き続いた箇所のほうがいいかな。

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体が、かつて根源的対象と経験した同じ関係の状況のもとにある対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が自我自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

例外はない。女性の方のなかには、「アタシとカレとのあいだの愛はそんなのじゃないわ」という人がいるかもしれないが。

私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

いやあ、シツレイ! この三島ってヒドイね。でも彼は原ナルシシズムの人だから許してあげてください。

三島由紀夫は生後まもなく祖母夏子に取り上げられ、母親は4時間置きに、授乳をする時のみにしかわが子に逢う機会はなかったという話は名高く、これでは極端な「原ナルシシズム」人格になるに決まっている。原ナルシシストとは原母だけに忠誠を捧げ、他の女は糞という人格である。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡traitsがある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
⋯⋯⋯このようにして同性愛になったものは、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

ネット上をみるとよくまとまった文があるので貼り付けておこう。

三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母の ヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)

2019年3月21日木曜日

最も美しいキクラデス彫刻

最も美しいキクラデス彫刻は、下のルーブルの陳列棚にあるほぼ完全な卵型をしている左隅の女性の頭部像である(もちろん蚊居肢ブログの架空の登場人物蚊居肢子にとって、という意味だ)。





これほど完璧に近い卵型はほかには見当たらない。





何世紀ものあいだにすぐれた様式化をなされていったキクラデス諸島彫刻のなかでも、奇跡である。

これらの彫刻群は基本的には死体といっしょに埋葬される「永遠の女神」である。





顧客に手に入れらるのは、死の以前であることも多く、おそらく家のなかに飾られていた(ときには目や首飾りなどの描画がなされたり赤などの着色がなされたりして)。これは、20世紀前後に一部の芸術家(ブランクーシ、ピカソ、モディリアーニ)等だけにほそぼそと愛されたキクラデス彫刻を、1980年前後から初めて系統的分析をしたパット・ゲッツ・ジェントル Pat Getz-Gentle 女史の見解だが、現在に至るまで覆される様子はない。






彼女の1990年時点の論文によれば、そのときまで男性像は5パーセント程度しか発掘されておらず、制作意図の基本は、おそらく「永遠の生」(ゾーエー)としての女神の象徴化である。






大理石の質感としては、陳列棚の右隅にある頭部像がいっそう好ましいが、彼は(つまり蚊居肢子は)この左隅の像をどうしても取る。軀部分などまったくいらない、この女の頭だけでいい。

形態的には墓のなかに横にして安置される彫像なので、いささか尖った卵にならざるをえないのだろうが、その様式化に対する微妙な離反としてのこの形である。




実に蚊居肢子の所有する亀頭的美をもっている。いっしょに埋められたのはきっと麗しき美女だったことだろう・・・

この作品制作職人にさいわいあれ!



ここで挿入的に記せば、もちろん蚊居肢子は我が江戸文化鼈甲芸術の無名制作者にも敬意をうしなう者ではまったくない(そもそもキクラデス彫刻の小ぶりのものは、あの時代の張型だった可能性があるのでは、と蚊居肢子は密かに考えているが、この見解は世界中でまだ誰も公けにしておらず、今後の究明がひどくまたれる)。





話を戻せば、あの作品のイミテーションが、ルーブルの土産物ショップに売っていて手に入れたが、35年のあいだこの卵に至高の愛を捧げている。




彼の所有している卵は使用過多でいささか黄ばんでしまったが。







上のようにゴダールのパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルも我が神代辰巳も卵に究極の愛を捧げている。卵以外のほかのイマージュなどすべてまがいものである。

ただしくりかえせば、質感だけは右隅のものがよい。艶光りしているのである。このような輝きは、鼈鍋を食ったあとにしかもはや老年の蚊居肢子には見出されない。





すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。セザンヌは正しかった。(ジャコメッティーーメルセデス・マッター『試論』)

《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)

彫刻がばかでかくなったのばかげている
飾りものが多い彫刻もばかげている
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない





ーーなんというギリシア芸術の不幸な進展! さらにローマ以降、あるいはルネサンス彫刻の誇大妄想的作品群など鼻を抓んで眺めるしかないのである(シツレイ! これは架空の登場人物「蚊居肢子」の偏見的話だということを再度念押しして置かなくてはならない。フロイトが言ったように愛とは排他的なのである)。

「古代の彫刻…これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」

「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」 (アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)

ーージャコメッティやアランのいっている卵は、より無意識的レベルでは別の意味がある筈である。

なぜアンドレ・ブルトンは、ジャコメッティ30歳のときの作品「宙吊りになった玉 Boule suspendue」を、ジャコメッティがシュルレアリスム運動から離反したあとも生涯愛し続けたのか?




真の芸術家たちは、真の美をよく知っているのである。

なお美については一見相反する二種類の見解がある。

①ニーチェ・フロイト的観点。

すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumである。(ニーチェ『偶像の黄昏』)
「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

②ラカン派的観点(これはカントの崇高概念も含めた美である)

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)

だがこれは実は同じことを言っているのである(ここでは説明は割愛、「女陰の奈落」を見よ)。結局、リルケの「ドゥイノの悲歌」冒頭の「美はおそるべきものの始まり」に収斂する。

さて何の話だったかーー。

ああ、蚊居肢子はあの至福の状態から外界に出てしまったのである。それはあなたがた皆と同様に。




なんという不幸の60年だったろうか!

ああ、あの廃墟になった享楽!
ああ、あのとんでもないおとし物!

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)





とはいえ蚊居肢子の場合、自我のレベルではいまだあの状態に戻りたいという願いはないのである。その願いは、通常はエスのレベルでしかない。ただしときにエスの願いが奔出する。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)

いや、耳をすませば、エスの声はいつもきこえてくる。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)



子宮から子宮へ


そう、あの母なる大地への帰還を促す声が。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


大切なのは、人はみなおとし物をしてしまったことを熟知することである。愛の起源はここにしかない。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎


このおとし物がラカンの究極の対象aである。それについては「穴と穴埋め」で詳述した。

若き谷川は空の青さと波の音を強調している。波の音とは羊水の音にきまっているのである。そもそも詩の起源は、あの羊水のなかできいた母の言葉以外にはない。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

こちたくこごしい欧米翻訳語を使ってばかりいるインテリ詩人たちにわざわいあれ!


空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


この若き頃の谷川の直観は、齢を重ねるにしたがって、実にフロイト的な認識に至るようになる。


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

ーーなんでもおまんこ


肝腎なのは、人はこのような根源的思考を欠かさないことである。

いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)




2019年3月20日水曜日

穴と穴埋め

いやあ・・・、だいたいブログってのは短くしか書けないからさ。一つだけ読んで訊ねてこられてもな、そもそもボクはセンセやるつもりはケほどもないし。

日本ラカン派業界では、こういったことをだれも明瞭にはわかっていない(すくなくともそう見える、ゼロに見える)ので、記すけどさ。

そもそも、aってのは a/a ってことなんだよ。つまり享楽喪失と剰余享楽(享楽の欠片)。

剰余享楽 plus-de-jouir とは⋯⋯享楽の欠片 lichettes de la jouissanceである(LACAN, S17、11 Mars 1970)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる「 le plus-de-jouir」の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)


で、享楽喪失のほうは、去勢あるいは穴のこと。






下段のaとは、出産外傷においての「原初に喪われた対象」であるラメラ(≒胎盤)に代表されて、これが原去勢。フロイトの表現なら「去勢の原像 Urbild jeder Kastration」。

去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

去勢とは上にあるように自分の身体だと思っていたものが、外部に離れてしまうこと。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離 Trennung von der Mutter
、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

生物学的去勢とは、上にあるように出生による母からの分離。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter ⋯⋯に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

 直接的な対象喪失とは、典型的には母の乳房。母の乳房ってのは最初は乳幼児は自分の身体だと思っていたはずだから。

疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

間接的な去勢とは、代表的には父による禁止だけど、これはラカン派では重要ではない(想像的去勢)。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression : que (pour faire image), la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

…結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていった。総体的に言うと、これや第二の局所論の大きな変化である。(ラカン、テレビジョン、1973年 )


ほかにラカンには象徴的去勢、つまり言語を使用することによって身体から切り離されてしまうという宿命が人間にはある。

シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

これらを享楽控除と呼ぶ。《(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。》(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)





マテームの話に戻れば、原初に喪失したモノは、原対象aとも呼ばれる。でも上のaと区別するために、最も一般的に記されるのは、下段のaを去勢とすること。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

たとえば、次のように記される(ポール・バーハウによる)。




ーーこれは、Aは-φ(穴)が空いているから、aで穴埋めするということ。




ーーこれはȺ(穴)だから、aで穴埋めするということ。


穴埋めマテームはこれだけじゃないけど、まず上が基本。

もうすこしいくつかのマテームを示せば、最もしばしば示されるのは次のマテーム(ジャック=アラン・ミレールが21世紀に入ってからいくつかの論文・セミネールで示している内容をまとめたもの)。





以下、以前何度か示した語句注釈のうちからのいくらかを貼り付けておくけど、くり返せばまず冒頭のaの両義性が基本。



■対象aの両義性

対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけもある。l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant, c'est un semblant comme le fétiche. (J.-A. Miller LA LOGIQUE DE LA CURE DU PETIT HANS SELON LACAN, 2008)
対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet »(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)


◾️原対象a(原初に喪われたモノ)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラ lamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a [objets a primordiaux ]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre、 2013)


◾️S(Ⱥ) とȺ
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout [Ⱥ]の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré [Ⱥ]」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)


◾️骨象a=固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


■Σ=S(Ⱥ)=固着
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。 Σ として のS(Ⱥ)[grand S de grand A barré comme sigma ]と記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


■享楽と穴Ⱥ(去勢)、父(父の名)と母(母の欲望)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)


ミレールの言っていることは、前期ラカンにおいても「母なるシニフィアン」「母なる去勢」「母なる超自我」という語を使って実質上、すでに言っている。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

ラカンはこの点にかんしては、30代のときから終始一貫している。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ここでは簡略化のために上のように記したが、実際のところは対象aにはすくなくとも三義性がある。あるいは最初の穴埋めシニフィアンS(Ⱥ)とは、Ⱥの境界表象であり現実界的シニフィアンであるため、文脈によっては、そのS(Ⱥ)までを含めて穴とする場合もある。




このあたりは難解だが、S(Ⱥ)は原穴埋めシニフィアンでありながら、穴埋めという象徴化の失敗が必ずある。フロイトの表現ならリビドー固着の残滓が必ずある。


(ポール・バーハウ、2004)


ラカン自身、上に示したミレールの記述に反してーー《S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 [Ⱥ]」を支配する》ーーS(Ⱥ)に相当する箇所を、「真の穴」と示している場合がある。



⋯⋯⋯⋯

最後にもうひとつのマテームを示そう。


愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)

ジャック=アラン・ミレールはこのラカンの言葉を次のように図示している。


想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)

i(a) は欲望の対象、aは欲望の原因である(参照:「欲望の対象」と「欲望の原因」)。
したがって穴埋めの上にさらに覆い(ヴェール)としてのi(a) がある。

上に示した穴と穴埋めのマテームから代表的なものを抽出して示せば次のようになる。





plus-de-jouirの両義性についてはくれぐれも注意しなくてはならない。それも上の図にて示した(参照:le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性)。







2019年3月19日火曜日

身体の多重性

「科学者」中井久夫は身体を29分類している(「身体の多重性」『徴候・記憶・外傷』所収)。

A 心身一体的身体
(1)成長するものとしての身体
(2)住まうものとしての身体
(3)人に示すものとしての身体
(4)直接眺められた身体(クレー的身体)
(5)鏡像身体(左右逆、短足など)

B 図式〔シューマ〕的身体
(6)解剖学的身体(地図としての身体)
(7)生理学的身体(論理的身体)
(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)

C トポロジカルな身体
(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)
(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体
(11)兆候空間的身体
(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体

D デカルト的・ボーア的身体
(13)主体の延長としての身体
(14)客体の延長としての身体

E 社会的身体
(15)奴隷的道具としての身体
(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)
(17)スキルの実現に奉仕する身体
(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)
(19)表現する身体(舞踏、身体言語)
(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)
(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)
(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)
(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)

F 生命感覚的身体
(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)
(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)
(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体
(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫))
(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)

そして付記的に、

(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)


⋯⋯⋯⋯


ラカンにおける身体の分類は二分類ーー「イマジネールな身体」と「穴としての身体」である(より厳密に「三分類」という観点もあるがここでは割愛)。

上の中井久夫の29分類区分を、この大二分類でさらに大括り分割してみようとふと思いはしたが、無謀な試みはやめておくことにする(やろうとしても6中分類が機能しなくなり、かなりムリが生じる)。

ここでは、ラカンの二区分を示しておくだけにする。

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

すなわち、「自らのイマージュ」=「イマジネールな身体」、「身体は穴」=「穴としての身体」としての二分類である。

ラカンが「話す身体 corps parlant」というときは、「穴としての身体」を指している。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

他方、「イマジネールな身体」とは、前期ラカンの身体である。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF)


ここでFlorencia Farìasが言っているのは、前期ラカンの「想像界は常に‐既に象徴界によって構成されている」という文脈のなかにある。そして《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)。

つまりイマジネールな身体とは、身体的なものではなく、心的なもの(言語的なもの)に属する。これが前期ラカンの身体である。


このイマジネールな身体の彼岸にある「欲動の現実界 réel pulsionnel 」、つまり「欲動の身体corps pulsionnel」、「リビドーの身体 corps libidinal」が、ラカンのセミネール20で入った「話す身体 corps parlant」に相当する。

・欲動の現実界le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt (リビドー固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この二つ身体、--「イマジネールな身体」と「話す身体」(穴としての身体)は、次のように注釈されもする。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、他者によって話される身体 corps parlé、享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 corps qui jouit である。 (Florencia Farìas、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)

ラカンの「ファルス享楽/女性の享楽」語彙を使って言えば、「ファルス的身体」と「女性的身体」ということになる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽[参照]) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールは、最近次のようなボロメオの環の図を示している。




もっともソレールが示しているのは、正確にはこうではない。たとえば「話す身体 corps parlant」を現実界の箇所には置いていない。話す身体は、人間が感知しうる現実界という意味において、実際は、Vrai Trou(真の穴)の箇所に置かれるべきかもしれない。

わたくしが今、仮に上のように置いてみたのは、ラカンの「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」、そしてニーチェ・フロイトの「エス」という表現を想起しつつである。フロイトにとってのエスはラカンにとっての現実界であろうから。

エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ラカンの「話す身体」とは、結局、「話すエス」である。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

そしてイマジネールな身体とは、自我のことでもある。

イマーゴ imago は、因果的装填 chargée de causalitéとしてのイマージュ imageである。…イマーゴとしてのイマージュl'image comme imago は、問題となる心的なものを捕獲する力能 puissance de capter, de capturer le psychism をもっている。このイマーゴをフロイトは自我 le moi と呼んだ。(Jacques-Alain Miller, L'Être et l'Un, Cours du 18 mai 2011)

したがって(厳密さを期さずに)フロイト版ボロメオの環を示せば、次のようになる。





いくらか話が逸れたが「モラリスト柄谷と浅田」にて次の図を示したことに対して問いがあったので、その応答として最後に図示した。








2019年3月18日月曜日

愛の起源の壺


(Four-Breasted Ceramic Jar, 500 to 1000 CE, Calapan, Mindoro, Arturo de Santos collection.)


ーーいやあいいなあ、これこそ愛の起源だろうな

ほかにも似たようなのはたくさんあるけど、このフィリピン、ミンドラ島の壺が一番いい。





子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


ま、言ってしまえば、「愛という症状」の起源はお腹が減った、だよ、 ほとんどこれしかないね。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

もっともラカンは原初に喪われた対象は乳房じゃないと言っているけど。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


こっちのほうは事実上、出産外傷による母からの分離、その空洞のまわりの循環運動だな。

例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


先史時代の芸術は、動物や渦巻模様やら女陰模様やら以外は、母なる女神像ばっかりだからな。




ホーレ・フェルスのヴィーナス Venus of Hohle Fels
ガルケンベルクのヴィーナス Venus of Galgenberg
ドルニ・ベストーニスのヴィーナス Venus of Dolni Vestonice

レスピューグのヴィーナス Venus of Lespugue
ヴィレンドルフのヴィーナスVenus of Willendorf
モラヴァニイのヴィーナス Venus of Moravany

ブラッサンプイのヴィーナス Venus of Brassempouy
VENUS OF YULIYEVICHは不明、
たぶん誤記で、Venus of Eliseevichi (読み方不明)
Venus of Monruzも読み方不明


こういった母なる女神ばっかりというのは、個人の先史時代、つまり幼年時時代だって同じさ。


二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」(中井久夫「発達的記憶論」初出2001年『徴候・記憶・外傷』所収)
幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

最もすぐれた個人的先史時代を探る方法は、歴史における先史時代の芸術鑑賞以外にないね。

実際のところ、個人の先史時代ってのは、個人に影響を与えている度合においては、歴史の先史時代の長さと同じくらいの重さがある筈だよ。



三歳以後の歴史時代三千年は、先史時代の三百万年に過ぎないというのは極端かもしれないけど。でも新石器時代一万年に対する三千年程度としたら、三歳以後の個人史は比重が多すぎるな。

そもそも出生後すぐには、人は「農業」なんてやってないからな。







たとえばこんなのがあるけどさ。


Reproductive calandric, ca 12,500 BC



これはパックリ母を表現したものにチガイナイ・・・

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)


やっぱりむかしむかしのアートを眺めて、わずかでも思い出さないとな。あの母なる女の支配を。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)


   (Diosa de Laussel , Francia aprox. 23.000 a.c)


太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


(Vénus de Lespugue —BC26000-24000)



「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)





2019年3月17日日曜日

酔歌

いやあなんか言ってくるやつがいるな。蛆虫の同盟者みたいなヤツが。

ニーチェってのは「酔歌」に決まってるだろ。ツァラトゥストラ第4部グランフィナーレのあれしかない、ニーチェの核心は。

美としては第2部の「夜の歌」「墓の歌」「最も静かな時」、第4部中盤の「正午」等のほうがいいかもな、でも思想的には「酔歌」しかない。

ああ41歳のニーチェの酔歌!

享楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.

…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)

これを外してニーチェなんてものはない。「力への意志」だってすでにここにある。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ーー酔歌がワカッタという「錯覚に閉じこもりうる」までには、初めて読んでから40年ほどかかったがね。

ラカンの「享楽回帰」は「酔歌」ーー《享楽 lust が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ》ーーのパクリだ。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンのサントームとは、永遠回帰のパクリだ。

症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


ラカンのサントームは、フロイトの「トラウマへの固着」(リビドー 固着)のパクリだ。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

フロイトの「不変の個性刻印」とは、『善悪の彼岸』70番のパクリだ。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

フロイトの「トラウマへの固着」とは「墓の歌」のパクリだ。

・わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。

・そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志 Wille だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。(『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」1884年)

『道徳の系譜』第二論文のパクリと言ってもよい。

「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文、1887年)


フロイトの反復強迫とは、永遠回帰のパクリだ。

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

フロイトの「不気味なもの」とはニーチェの愛人サロメのパクリだ。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919年)
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)


ま、でもこういったことはワカラナイでいいのさ、ツァラトゥストラ4部だって引き受ける出版社がなくて、私家版40部だか50部刷って知り合いに配っただけなんだから。

いまだって似たようなもんさ、世界には(蚊居肢子以外には?)、ワカッテル人物を数えるのは片手で十分さ。日本ではゼロであるのは間違いないね、もっとも小林秀雄の「ニイチェ雑感」はいいセンいってたが、それ以後、日本思想界はひたすら退行の道を歩んでるからな。

力への意志Wille zur Machtが原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)


そもそも永井均だと? ありゃたんなるゴマスリ学者だよ、一行掠め読むだけで鳥肌立つな。ああいったオベンチャラ系蛆虫に依拠してナンタラ言ってくるな。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」『ガンジュ侯爵夫人』)