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2020年7月4日土曜日

小津の神












※「ゴダールの神」より。







2020年7月3日金曜日

セクシャリティとコピュリン

ははあ、ブルース・フィンクは最近の愛をめぐる書でとっても大切なことを註にて示しているな。


ボクはフィンクはあまり読まないけどーー彼は誠実過ぎるラカン注釈者で刺激が足りないーー、でもこれはいい。《コピュリンと呼ばれる女性のヴァギナホルモンは、テストステロン(男性ホルモン)のレベルを上げて性欲を増大させる[female vaginal hormones called copulins that …raise testosterone levels and increase sexual appetite in men](Bruce Fink, Lacan on Love: An Exploration of Lacan's Seminar VIII, 2017)。ラカンの対象aには眼差しや声があるのに、においがないのは大きいな欠陥だからな。

コピュリンについては、日本でもこんな記事がある。

女性の体には、生理前→生理中→生理後→排卵前→排卵期→生理前...というサイクルがある。このうち、「排卵期」になると妊娠しやすくなり、男性を誘うフェロモンを発することが様々な研究で明らかになっている。

2011年、米フロリダ州立大学の心理学者、ソウル・ミラー教授は、女性の汗のニオイを男性にかがせる実験でそれを確かめた。11人の女性学生に新品のTシャツを配り、「排卵期」の3日間と、そうでない時期の3日間、ずっと着続けてもらった。その際、香水や化粧水などの使用は一切禁じ、ソープも無香性のものに限定した。

そして、男子学生たちの2種類のTシャツのニオイをかがせて、「どちらの方が性的な気持ちの高まりを感じるか?」と尋ねた。すると、ほとんどの男子学生が「排卵期」のTシャツを選んだ。また、男子学生の血液を採取し、男性ホルモンのテストステロンの量を測ると、「排卵期」のTシャツをかいだ時の方が明らかに高かった。ニオイをかいで興奮したのである。

ソウル・ミラー教授は「男性は、本能的に子孫を残せる相手を求めています。女性が妊娠しやすい時期にあることを臭覚で察知しているのです。女性も今の自分ならあなたの子どもを生めるわ~、とニオイでアピールできるフェロモンを排卵期になると放出すると考えられます」と語っている。

そのフェロモンとは「コピュリン」と呼ばれる物質だ。別の研究で、コピュリンをニオイがわからないほど薄めて男性にかがせる実験を行なった。複数の女性の写真を見せると、どの女性に対しても「魅力的だ」と答える男性が多かった。女性なら誰でもキレイに見えて評価が甘くなる効果があるのだ。コピュリンは最近、多くの香水に使われている。(「女性はエッチなフェロモンを出すってホント?」2016)

こういう記事がある一方、効果なんてたいしてないという話もある。➡︎ 「Synthetic Copulin Does Not Affect Men's Sexual Behavior, Megan N. Williams & Coren Apicella, 2018

ーーコピュリン絶賛系の科学論文は、裏に香水業界がついているに決まっているのでご注意を!

とはいえ、フェロモンを否定したらもともこうもないので、コピュリンなる性誘引物質がそのうちのひとつであるのは確かだろう。

フェロモンの定義は「動物個体から放出され,同種他個体に“特異的な反応”を引き起こす 化学物質」だそうだ(「フェロモンなどの匂いを介したコミュニケーション」篠原一之、西谷正太)。

この論文にはフェロモンの四分類が示されている。



さらに腋下フェロモンが強調されているが、子宮フェロモンだってあるに決まっている。

無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)

試験管ベービーのたぐいを除いて、人の身体にはみな、胎内のにおいの刻印がある。これこそ対象a(喪われた対象)の根源の代表的なもののひとつであり、そのにおいを取り戻そうとする絶え間ない享楽回帰ーー無意識のエスの反復強迫ーーがある筈である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

享楽の対象としてのフロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)

モノは対象aである。そして《母は構造的に対象aの水準にて機能する C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  》(Lacan, S10, 15 Mai 1963 )。だがより厳密には原喪失としての対象aは、ラカンにとって「ラメラという羊膜の喪失」である。

とはいえ究極の享楽回帰とは母胎回帰に収斂する。

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーー女性において自傷行為や拒食症が多発するのはこの子宮回帰欲動のヴァリエーションだと想定される(参照)。

話を戻せば、ヴァギナフェロモンについては、においの本格的研究は1990年前後に始まったばかりなのでまだほとんどのことが曖昧なだけである。


生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の 5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。

もうひとつ、嗅覚の重要説を裏付けるものとして、においの「レセプター(受容体)」について触れておきましょう。人間は、各対象に対応したレセプターを持ってはじめて、対象を感知することができます。たとえば味覚であれば、甘味、苦味、酸味などを感知するレセプターを 5つほど持っていて、その組み合わせによって味を判断しています。視覚も同様で、光の粒子を感知する数種類のレセプターで色を認識しています。そして嗅覚はというと、においのレセプターが発見されたのは、約 20年前のことです。発見したのは女性研究者、リンダ・バック博士。彼女の研究によってわかった人間のにおいレセプターの数は、少なくとも数百種類あります。人間の遺伝子が 2万数千種類であるのに対して、その全体の数パーセントを、においに関する遺伝子が占めていることになります。ここまでたくさんの数の遺伝子を用意している組織は、ほかにありません。人間にとってどれだけ嗅覚が大切か、お分かりいただけるでしょう。(福岡伸一「生物の進化と“ におい ”の関係」2010年)


こういったことは直観的にであれ昔からの言われてきた。ボードレールにはそれがふんだんにあるが、ここではホルクハイマー&アドルノを引用しよう。

においを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)


何はともあれ、子宮内から発するコピュリンなるフェロモンが男女の「リビドーの身体」としてのコミュニケーションに、ある意味で決定的役割を果たしているのは間違いなかろう。

人は心的外被に過ぎない自我の領域ばかりで考えていたらダメなのである。

フロイトラカンの基本図式


最後にいくらかキワモノっぽい感がないわけではないコピュリン解説映像を貼り付けておこう。









小津の神さん







女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)






2020年7月2日木曜日

ラカンとミレールのセミネール一覧

ラカンのセミネールのSTAFERLA版(音声聞き取り版)はすべてここにあるよ→「STAFERLA」。ミレール版はない。

ミレールのセミネール(1981年から2011年まで)は→「L’orientation lacanienne: le cours de Jacques-Alain Miller

ボクはゼンゼン読んでないがね、ただし重要な用語を検索するときは使うね。

それと図だな、たとえば。


右下の図の上のAは前回触れたように、自我。

フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである[grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a]。(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)

で、やっぱり究極の享楽は死なんだな、ということが確認できる。

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


……………

◼️享楽の控除=リビドーの控除=去勢
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
リビドー libido は、…人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

◼️去勢=穴(享楽の穴)
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)






2020年7月1日水曜日

フロイトラカンの基本図式


このところ繰り返している内容を可能な限り簡潔に記す。

フロイトの思考の基本はこうである。まず身体的なリビドー[libido]があって、その覆いとして心的外被[psychische Umkleidung]がある。だが心的外被は充分にはリビドーを飼い慣らせず、必ず異物[Fremdkörper]がエスに居残り症状となる。



これはラカンも同様である。リビドーは享楽であり、心的外被は形式的封筒 [l'enveloppe formelle]ーー代表的なものはファルス、つまり言語の大他者Aーー、異物は残滓としての対象aである。

ジャック=アラン・ミレールを引用して確認しよう。

フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄(取り消し)である[grand A refoulant, annulant la jouissance. ]。



フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである[grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a]。
フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れる[la motion de la pulsion échappe à toute influence]ことである。つまり享楽の抑圧、欲動の抑圧は欲動要求を黙らせるには十分でない[que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. ]。
そして症状は、自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である[le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle]。(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)

上でミレールが言っているのは次の内容である。

◼️抑圧=エスの翻訳の失敗
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ  6.12, 1896)
自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)(フロイト『モーセと一神教』1939年)

◼️症状=異物としての症状
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

ーーそしてこの異物に対する防衛として種々の二次的症状が発生する(防衛とは1926年以降のフロイトにとって抑圧と等価である)。通常、症状と呼ばれているものは、この二次的症状であり、異物としての症状が原症状である、➡︎「サントームは異者である」。


ラカンにおける異物(異者としての身体)の定義はいくつか並べておこう。

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14  Mai  1969)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

ーーラカン的な語彙群によるもういくらの詳細は「後期ラカンの鍵」を参照されたし。


◼️付記

後期ラカンの臨床の問いとは、結局、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終わりなき分析』の、たとえば次の二文に収斂する。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie  である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)




2020年6月30日火曜日

イマージュの傍らの無


確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)


ゴダール『(複数の)映画史』「4B」

イマージュは対象a を隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
対象aは無[ le rien]である。(ラカン、E817、1960)
モノは無物とのみ書きうる  la  chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971) 
モノ La chose、それはもし美あるいは女とともにavec une belle ou avec une dame 現れないとしても、スクリーンの上の暗くされた部屋のなかのイマージュとともに dans la salle obscure avec une image qui est sur l'écran 現れる。(ラカン、S3, 31 Mai 1956)


ゴダール『(複数の)映画史』「3A」


現実界の中心にある空虚[vide au centre de ce réel]の存在を表象するこの対象は、モノla Choseと呼ばれる。この空虚は表象のなかに現れる。何もないものnihil、無rienとして。(ラカン, S7, 27  Janvier  1960)
モノLa Choseは享楽の空胞 vacuole de la jouissanceである。(Lacan, S16, 12 Mars 1969)
享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)


ゴダール『(複数の)映画史』「1A」



モノは大他者の大他者である。モノは穴である。la Chose […] c'est l'Autre de l'Autre.  […] la Chose est équivalente à l'Autre barré[Ⱥ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


ゴダール『(複数の)映画史』「1A」



モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


ゴダール『(複数の)映画史』「4A」


「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。ラカンはそのかわりに、外密extimitéという語を発明した。(ムラデン・ドラ―Mladen Dolar, I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
モノとしての外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体のモデルmodèle corps étrangerである。…外密はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合う語である(親密/不気味 [Heimlich / Unheimlich])。(J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


ゴダール『(複数の)映画史』「2A」


女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



2020年6月29日月曜日

シニフィアンはトラウマの原因

「シニフィアンはトラウマの原因」としたが、厳密にはシニフィアンはトラウマ的反復強迫の原因ということである。

ジャック=アラン・ミレールの、おそらく一般には誤解をひどく招きやすい文がある。

真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢恐怖でも、性交の目撃でもない。これらすべてを幻想へ移行させることでもない。エディプスや去勢でもない。真のトラウマの核は言語システム[la langue]との関係にある。Que le véritable noyau traumatique n'est pas la séduction, la menace de castration, l'observation du coït, ni non plus la transformation du statut de tout cela en fantasme, ce n'est pas Œdipe et castration. Le véritable noyau traumatique est le rapport à la langue (J.-A.Miller, Joyce le symptôme, 1998)

去勢とあるが、去勢には大きく二種類ある。構成する去勢と構成された去勢である。上の文でミレールの言っている去勢は幻想のなかの去勢であり、構成された去勢である。他方、構成する去勢は、次のように定義されるリアルな去勢であり、すべての基盤である。

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

この去勢は現在ラカン派では「一般化去勢 la castration généralisée」と呼ばれ「一般化トラウマle traumatisme généralisé」と等置される。ことほどさように、現在の解釈からみたら、いささか不用意な文であるようにさえ見える。

通常は「まさか!」という反応を生む文である、ラカン派内でさえその反応があり、わたくしも長いあいだ放っておいた。

だが冒頭のミレール文の基盤は、ラカン自身による《シニフィアンは享楽の原因》にあるだろうことに最近気づいた。

シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?(ラカン、S20, December 19, 1972)

そもそも享楽とはトラウマ、かつトラウマの反復強迫のことである。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン, S23, 10 Février 1976)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない(反復強迫)。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)

たとえば「穴としての享楽」とラカンは言う。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

この穴とはラカンには trou-matisme との表現があるように、トラウマのことである。

現実界は…穴=トラウマを為す。 le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

したがってミレールは次のように言う。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

享楽自体、穴をを為すものである。jouissance même qui fait trou(J.-A. Miller, Passion du nouveau, 2003)


次にミレールの《真のトラウマの核は言語システム[la langue]との関係にある》、ラカンの《シニフィアンは享楽の原因》について考えてみよう。

フロイトには語表象、事物表象、モノ表象という三種類の表象がある。これはそれぞれ象徴界的シニフィアン、想像界的シニフィアン、現実界的シニフィアンに相当する。



ーーモノ表象をフロイトは境界表象 Grenzvorstellungとも呼んだ。モノあるいはエスの境界シニフィアンである。現実界の境界シニフィアンと呼んでもよい。

フロイトのモノを私は現実界 と呼ぶ。La Chose freudienne. […]ce que j'appelle le Réel(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


この区分はとくに目新しくはなく、たとえば1870年代の20代のニーチェが既に似たようなことを言っている。

言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(…)

人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)


話を戻せば、人間には大きく言って上に掲げた図表の3区分の表象がある。もちろんラカン的に最も肝腎なのはもちろん現実界的シニフィアンである。前期ラカンはこのシニフィアンを純粋シニフィアンと呼んだ。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純粋シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。純粋シニフィアンは言語のリアルな相 dimension of the Real-of-languageがある。(ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性 Subjectivity and Otherness』2007)
主体とシニフィアン自体との関係は、最も形式的な相[aspect le plus formel], 純粋シニフィアンの相[aspect de signifiant pur]にあり、われわれはそれを精神病の核に繋げなければならない。精神病は純粋シニフィアンのまわりに構成されている。(Lacan, S3, 31 Mai 1956)


純粋シニフィアンとは他のシニフィアンと繋がらないシニフィアンである。

シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne 。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)


「繋がる」とは「S1-S2」という形でラカン派では示され、「繋がらない」とは「S2なきS1」である。

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)


このフロイトの固着としてのサントームが本来の享楽である。

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


とはいえ、サントームの享楽としての現実界的シニフィアンの反復だけではなく、象徴界的シニフィアン、想像界的シニフィアンによっても人は反復を起こす。前者をファルス享楽、後者を想像的自我の享楽と呼ぶ(参照)。

たとえば一人称代名詞「私」という象徴界的シニフィアンがある。人はこの「私」という語を使うことによって身体的なものを喪う。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

したがって身体的なものの喪失によって反復を引き起こすという意味では、トラウマ的である(ここでのトラウマとは言語外の身体的なものの反復という意味)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


人はシニフィアンを使うことによって常に去勢があり、トラウマ的反復があるのである。

ラカンは次のように言っている。

常に1と他、1と対象aがある[il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)](Lacan, S20, 16 Janvier 1973)

この「1」はシニフィアンのことであり、対象aは身体的残滓のことである。

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者(異者としての身体)は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


したがって「1と対象aがある」とは「1と身体がある」である。

1と身体がある[Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013)


さて以上から、「1と身体がある」が享楽の原因であり、トラウマの原因であることが示せたであろうか。もちろんトラウマ的出来事自体はシニフィアンとは関係なしに起こる。だがトラウマ的反復強迫はシニフィアンに起因するということが。

………

もちろん、一般的なトラウマの反復とは、トラウマ的出来事への固着映像の反復強迫であり、典型的なのは次のような事例だろう。

私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。

その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。

ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



さらに次の文で、中井久夫が「静止的視覚映像」と言っているのが、ラカンの現実界的シニフィアンの審級にほぼありーーイマーゴという意味では、想像的シニフィアンでもある。ラカンはこの静止画像の底にあるもの示すのにフロイトの《表象代理 Vorstellungsrepräsentanz》という表現を好んだが[参照]、これは《欲動の表象代理 Vorstellungs-Repräsentanz des Triebes》のことであるーー、「異物」と言っているのが、フロイトの Fremdkörperーーラカンはしばしば「異者 étranger」あるいは「異者としての身体 corps étranger」と呼ぶーーであり、この異物が固着による身体的残滓である。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


したがって、トラウマの核心は固着であり、その固着による身体的残滓(異物)の反復あるいはその残滓を取り戻そうとする不可能な運動である。

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18.  Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着、 1916年)



上の文でフロイトは事故的トラウマへの固着を語っているが、幼児期の身体から湧き起こる欲動にかかわる構造的トラウマへの固着もある。中井久夫は《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》と断言しているが、事故的トラウマと構造的トラウマとはまさにこの意味である。

二歳半から三歳半にかけて成人言語の世界に入場する以前の幼児に起こる身体の出来事は、言語によって秩序化・減圧化されないという意味でトラウマ的である。その出来事の強度の多寡はあるが、そのうちのいくつかの徴は後の人生に大きな影響を残すトラウマ的刻印となり反復強迫を生む。主に母が乳幼児の身体を世話するときに生ずる徴である。母の言葉ーーララングと呼ばれ喃語の一種であるーーもそのうちの重要なひとつである。

前期フロイトはこの固着に相当するものを《我々の存在の核 Kern unseres Wesen》、後期フロイトは《欲動の根 Triebwurzel》とも呼んだが、これがラカンの本来の享楽としてのサントーム、人がみなもつ原症状としてのサントームの享楽である。

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



後期ラカンの女性の享楽自体ーーセミネール20「アンコール」までの女性の享楽ではなくその後の女性の享楽ーーは、このトラウマへの固着としてのサントームであり、生物学的女性にある享楽ではない。ラカンにおいて概念の転回があったのである(参照)。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)

したがって、たとえばラカンが次のように言うとき、「ひとりの女は固着による異者身体=身体的残滓である」という意味である。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


もし女性の享楽における女という言葉にどうしても拘るなら、最初の世話役としての母なる女の徴の享楽としてもよい。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。(ラカン、S17、11 Février 1970)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


つまり男にもあり女にもある徴、母なる原誘惑者による身体の上への刻印の享楽である。この意味で「サントームは母の名」と呼ぶことができる。

Le sinthome est le nom de la Mère
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)



もっとも厳密には「母の名」というより、「サントームは母なる異者身体の名」である(参照)。フロイト観点では、原幼児期、子供は自己身体と母の身体の区別をしていない。だがすぐに母からの分離を悟る。この分離=去勢された身体が母なる異者身体である。さらに遡れば、出産外傷、つまり母胎の喪失が原去勢がある。これをフロイトラカン両者とも叙述している。フロイトは「去勢の原像」としての出産外傷、ラカンは「胎盤の喪失」あるいは事実上「羊膜」と捉えうる「ラメラの喪失」としての原対象aと。

もし生物学的女性の方において、女性の享楽つまりサントームの享楽が男性よりも多く顕現するなら、すべての女性の股の間にある子宮か、あるいは男性に比べてファルスの鎧、つまり言語による鎧が薄い所為なのが要因である。他にも種々の可能性を推測しているラカン派がいるがここでは割愛する。ここで言いたい大切なことは、女性の享楽とは生物学的女性固有の享楽では決してないことである。

女性の享楽=サントームとは、固着による症状である。

ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



固着によって発生した異物(身体的残滓)は表象不可能である。だが人はその残滓を表象しようと何度も何度も繰り返し試みる。これが反復強迫=反復享楽である。






フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2011)

私は「1と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」が分析経験の基盤であると考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


上図はラカンマテーム穴Ⱥと原穴埋めシニフィアンS(Ⱥ) ーートラウマの境界表象ーーを利用すれば次のようになる。






S(Ⱥ) とはサントームΣのことでもある。

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

Ⱥとは享楽の穴という意味であり、斜線を引かれた享楽マテームにて示されることもある。したがって次のようにも示せる。




この固着とその身体的残滓である異物が、トラウマの反復強迫メカニズムの核心である。

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…自我は、二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf において、原症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

人がみなもつ原症状としてのサントームとは、事実上、構造的外傷神経症であり、その意味でこのトラウマの反復強迫メカニズムにどう対応するかが現在のラカン派臨床の核とさえ言える。

固着とは原抑圧のことである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

そして現在、主流臨床ラカン派では原抑圧の時代と呼ばれている。

後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)