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江戸の浮世絵からヨーロッパ近代絵画が生まれた

日本は江戸時代に鎖国していて、明治維新になってヨーロッパの近代化の波が押し寄せて、社会システムから文化までガラッと変わり、アートもその例外ではありませんでした。

高橋由一『花魁』1872年(明治4年)

特に日本の伝統的な絵画が浮世絵にしろ肉筆画にしろ、輪郭を線で描く表現だったのに対し、ヨーロッパの写実画は「まるで本物のようだ」とずいぶんと驚かれ、洋画を志す日本人画家も増えていったのです。

鏑木清方『朝市』1901年(明治34年)

また日本の伝統的な絵画もヨーロッパ式の人体デッサンの影響などを受けながら、「洋画」に対する「日本画」としてのアイデンティティを確立していったのです。

ところが実は、日本のアートが一方的にヨーロッパの影響を受けたのではなく、実は日本の伝統的なアートもヨーロッパに少なくとも「同等」の影響を与え、それにより「近代芸術」が生まれたと言っても過言ではないのです。

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さて、江戸末期から明治にかけて、ヨーロッパからはさまざまな絵画作品が輸入されましたが、一方で日本からヨーロッパへは当初、陶磁器が好まれて輸出されました。

フェリックス・ブラックモン (1833 - 1914年)

ところがフランスの陶芸家で画家のフェリックス・ブラックモンが、日本から送られた陶磁器の荷物を開けた際、その「仕切り」として入れられていた『北斎漫画』を発見し、非常に驚くとともに歓喜したのです。

葛飾北斎『北斎漫画』(現代の復刻版)

『北斎漫画』は木版の浮世絵ではありますが、和綴の「絵本」であり、仕切り板としてちょうど良いサイズだったと思われます。

そしてこの『北斎漫画』はさまざまな動植物や人物のポーズが多数描かれた「絵画のお手本帖」で、著者はもちろん葛飾北斎でした。

ブラックモンはそんな『北斎漫画』の斬新さと見事さに感銘を受け、その魅力を仲間の画家たちにも言いふらし、ヨーロッパでの浮世絵の認知と人気が高まっていったのです。

ヨーロッパの画家たちにとって浮世絵はこれまで観たことのない全く新しいアートであり、それと同時にヨーロッパ絵画の未来の方向性を示したものでもあったのです。

19世紀当時のヨーロッパは、日本に先駆けて産業革命と共に社会改革が進み、王国貴族に取って代わって、市民階級が新たに台頭してきていました。

そのように時代は新しくなったのに、実は絵画の世界は旧態然としたままで、伝統的な写実絵画が惰性のように描かれ続けていたのです。

そんな状況に閉塞感を抱いていたヨーロッパの画家たちにとって、日本からもたらされた浮世絵はまさに光明となって、さまざまな形で影響を与えたのです。

エドゥアール・マネ『オランピア』1863年

例えば私の記事で以前にも取り上げたエドゥアール・マネですが、彼はアカデミズム絵画の伝統を打ち破り、描く対象物の陰影を略した「色面のかたまり」として描きましたが、それによって得られる明朗な色使いは、明らかに浮世絵の影響があるのです。

ジャック=ルイ・ダヴィッド『ナポレオン一世の戴冠式』 1805-1807年

またマネに影響を受けた印象派の画家たちは、屋外に出て自然や都市の風景などを描きましたが、実は伝統的なヨーロッパ絵画は国家の威信を示すための「歴史画」や「肖像画」を描くのが使命とされ、そのような意味から外れた身近な風景はほとんど描かれることはなかったのです。

ところが江戸時代の日本では、実はヨーロッパに先駆けて「市民社会」が成立し、庶民が好む「風景画」が浮世絵として当たり前に存在していたのです。

そして浮世絵は版画ですからたくさん刷ることができ、庶民が気軽に買える娯楽アイテムとして、現代のポスターや漫画本のように親しまれていたのです。

日本がヨーロッパに先駆けて市民社会が成立したのは、戦国時代が終わった江戸時代は戦争のない平和な時代が続いたことも原因の一つです。

それと江戸時代の日本には参勤交代という奇妙な風習があり、そのおかげで日本全土に通じる街道が整備されることになりました。

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

そしてその街道を利用するかたちで、庶民の間で「お伊勢参り」というこれまた奇妙な風習が定着していたのです。

お伊勢参りとは、伊勢にある伊勢神宮にお参りに行くという宗教行為ではありますが、実質的には「旅行」であり、庶民にとっての「娯楽」でした。

娯楽とは言え表向きは敬虔な宗教行為なので、たとえ奉公人であっても「お伊勢参りに行く」と言われると雇い主も休暇を与えざるを得なかったのです。

そのようなわけで、江戸時代の日本にはヨーロッパに先駆けて「旅行ブーム」が訪れて、庶民はみな旅行を楽しんでいたのです。

そしてこの「旅行」による視点が、江戸時代の庶民に「近代人」としての精神を養わせたのです。

なぜなら近代以前の人々は、日本人でもヨーロッパ人でもどこの地域の人でも、基本的にその土地に居着いて移動することがないのです。

そして同じ土地にずっと縛られたままでいる限り、「風景」という概念を意識することはないのです。

つまり「風景」は、人々が土地から自由になり移動するようになって初めて発見され、風景の楽しさや美しさが認識されるようになるのです。

ですから「故郷の風景」というものも、故郷を離れて帰ってきてから認識されるもので、ずっと故郷に縛られたままでは比較対象がなく「故郷」という概念すらも認識され得ないのです。

そのようなわけでヨーロッパでは産業革命以降に鉄道網が発達すると共に旅行ブームが訪れ「風景」も意識されるようになるのですが、その点において江戸時代の日本はとっくの昔に近代化を達成し、さまざまな絵師により「風景画」が描かれ、分野として成熟の域に達していたのです。

そのような日本の「風景画」に影響を受けて、近代ヨーロッパの画家たちも「自分たちの風景画」をあらたに描こうとしたのです。

セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』(1882-1885年)
葛飾北斎『富嶽三十六景』信州諏訪湖(1831-1834年)

例えばセザンヌは、故郷のサンヴィクトワール山の風景画を繰り返し描きましたが、これらは葛飾北斎の富嶽三十六景の影響が大いに観てとれるのです。

セザンヌは富士山をサンヴィクトワール山に置き換えただけではなく、北斎ならではの巧妙な構図法と遠近法をよく学んで消化し自分のものにしていったのです。

北斎の浮世絵はヨーロッパの写実画のような陰影法や空気遠近法を使っていないのにも関わらず、対象物の重なりや視線誘導などさまざまなテクニックを使い、風景画に生き生きとした動きと無限の奥行きを与えたのです。

そんな北斎の浮世絵は日本のみならずヨーロッパも含めた絵画の最高峰であり、セザンヌはその一番弟子であり、だからヨーロッパ近代絵画の最高峰だとも言えるのです。

いやセザンヌだけでなくマネやモネ、ルノワールやゴーギャンやゴッホもみな北斎をはじめとする江戸の浮世絵師の弟子であり、その先進的な精神を受け継ぎながらヨーロッパ近代絵画のパイオニアとなったのです。