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トラウマ概念の歴史の簡単なまとめ

神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ

ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』

鉄道事故・ヒステリー・フロイト

現在のトラウマ・PTSDに連なる症候群が最初に発見されたのは、19世紀半ばのことでした。1866年、イギリス人外科医のジョン・エリクソンの『神経系の鉄道事故および他の原因による障害について』において、鉄道事故の後遺症として生じる精神症状として語られたのが最初です。

エリクソンはあくまで「鉄道脊髄症」という物理的損傷があり、そこに精神的ショックが重なることで発症するモデルを想定していましたが、同僚のハーバード・ペイジは物理的損傷がなくとも精神的ショックだけで症状が生じることになると述べ、論争になっています。

この背景には鉄道会社の賠償責任を巡る司法的な争いがあり、エリクソンの説は実際に受傷があるため賠償の支払いを求める被害者の側から、ペイジの説は実際には受傷がないため支払い義務はないと主張する鉄道会社の立場から利用されていました。

トラウマの実体性、そして司法的責任というものは今日まで続く論点です。

そして、ヒステリーの科学的研究を切り拓いたフランス人神経学者のジャン=マルタン・シャルコーもトラウマの役割について認識していました。

シャルコーもまた身体的な事故の発生を前提としていたものの、トラウマ的出来事の精神的ショックによって被暗示性が高まり、その結果ヒステリーと同様の症状が生まれると主張したのです。とりわけこうしたトラウマ神経症は男性患者が多かったことから、シャルコーはそれまで女性の病とされてきたヒステリーを、トラウマを通じてより広い病態の中に位置づけることになったのです。

シャルコーは症状の記述には熱心でしたが、その一方で患者自身やその生活の内面にはあまり興味を示すことはありませんでした。そこに徹底的に向き合ったのがシャルコーの後継者としてヒステリーを研究した、ジャネ、そしてジークムント・フロイトでした。

とりわけ初期のフロイトはトラウマの問題に積極的に取り組み、ヒステリーの原因を「早すぎる」性的体験にあるとして、これを「ナイル川の源流の発見」と述べたのです。しかし、患者の語る過去が必ずしも真実でないことに気づいたフロイトはすぐにこの論を撤回し、現実のトラウマ体験がヒステリー症状を引き起こすのではなく、それに関する空想こそが引き起こすのだという主張に大きく転換することになりました。

このフロイトの転換はトラウマが実体的なものから心理的なものへと移り変わっていく中で行き着いたものであり、トラウマの出来事の実在そのものの否定となってしまったということができます。このフロイトの転向は、当時の社会において児童の性的虐待があるという主張は受け入れられないだろうという政治的判断からなされたのだ、と後に批判されることになります。

実際このフロイトの転向の影響は大きく、その後長い間、臨床心理学や精神医学において、とりわけ女性と子供のトラウマが重要視されないことに繋がってしまったのです。

ジャネとフェレンツィ

フランスの心理学者ピエール・ジャネは、フロイトに先んじてシャルコーの研究を推し進め、ヒステリーの原因としてトラウマ的出来事によって生じる解離がその根底にあるという理論を打ち立てました。ジェネの理論は現在の解離性障害だけでなく、PTSDや境界性人格障害といったものをも説明するものであり、今日的な議論を多くの点で先取りしたものとなっています。

初期のフロイトはジャネの理論とかなり似通っていたのですが、当時からジャネは解離としてトラウマ的出来事によって受動的に病理が形成されるという考えをしていたのに対して、フロイトは抑圧として意識されないものの自我の意思によって能動的に病理が形成されると考えていた、という差異がありました。

この受動的な性格を持つ解離の病理と、能動的な性格を持つ抑圧の病理の対比は、その後二人の理論を大きく異なったものとしていき、やがて心理学における主導権争いとなり相互に非難し合うような決定的な対立としてしまったのです。

結果としては、この争いはフロイトに軍配が上がりました。フロイトの名声が高まる一方で、ジャネの理論はあまり注目されなくなり、とりわけその死後はその存在がほとんど忘れ去られる程でした。しかしながらジャネが打ち立てた解離の理論と膨大な臨床記録は、トラウマの概念が注目されるとともに、フロイトの抑圧では説明できないものを探究しようとする中で再発見されていき、現在は多くの心理学者や治療者に影響を与えるものとなっています。

ジャネと同じく再評価が進んでいるのが、ハンガリー出身の精神分析家であるフェレンツィ・シャーンドルです。フェレンツィはフロイトの後を継ぐ精神分析家として活躍していたが、晩年になって性的虐待のサバイバーに対しる精神分析治療に取り組むようになり、フロイトと異なる道を歩むようになりました。

フェレンツィは性的虐待が空想などではなく現実において生じていると述べ、フロイトがヒステリー患者のうそを発見したために「患者を愛することをやめた」結果、患者に対してあくまで知的な領域で関わる教育者の役目となってしまい、トラウマで苦しむ患者を本当に救うことができなくなったと指摘したのです。

フェレンツィは中立的態度を捨て、患者の言葉を共感して傾聴し、さらには「相互分析」というスタイルまで導入することになりました。ただその結果としてフェレンツィは治療において大きく消耗し、さらには自身の理論がフロイトから拒絶されたことも相まって、健康が急速に悪化し晩年の思索をまとめ上げる前に亡くなりました。ジャネと同じく、とりわけ後期の仕事は長く忘れさられていましたが、そのトラウマ理解や治療理論は晩年の『臨床日記』の刊行と共に再注目されています。

第一次世界大戦とシェルショック

第一次世界大戦は、その大量の犠牲者と長期間にわたる塹壕戦によって特徴づけられます。十分な訓練を受けないままで前に送られた兵士たちはパニックや恐怖反応、逃避行動、理性の欠如、睡眠や歩行障害、会話不能といった特殊な症状を呈することになります。

最初は鉄道脊髄症と同じくそうした症状は砲弾の衝撃によって生じると、エリクソンと似たような考え方がされたため、それは「シェルショック」と名付けられました。しかし徐々にそれがトラウマ体験によって生じることが明らかとなり、より包括した戦闘神経症という言葉でまとめられることになったのです。

戦闘神経症は各国で大きな問題となりましたが、その大きな焦点はそれを現実の受傷として見るのか、あるいは自己暗示の結果一種の詐病として生じるのか、ということでした。

ドイツではヘルマン・オッペンハイムがトラウマ神経症という生理学的な変化を前提とした概念がありましたが、戦争期にはそれは心因反応としてのヒステリーであると激しく批判されることになります。またイギリスでは精神分析を学んだW・H・R・リヴァーズのような人道的な治療者も存在していましたが、電気ショックなどの懲罰的な治療も行われていました。フランスではシャルコーの後継者のバビンスキーがヒステリーの自己暗示的側面を強調した影響もあり、治療というよりも権威的な説得が主に用いられました。

いずれも戦闘神経症は戦闘継続のための脅威として見られ、愛国心や勇敢な男性性の欠如として否定的に捉えられたようです。また身分の高い上官の症状は環境因と見られて前線から離れ休息が必要だと言われるのに対して、身分の低い兵士は個人の意思の問題として説得され前線に戻されるという傾向も存在していました。

トラウマの実在論、身体性、疾病利得、さらにはジェンダーや社会的な要因など、戦闘神経症を巡る問題は現在のトラウマにおける議論の多くを先取りしたものが含まれていました。

他にも、第一次世界大戦における戦闘神経症はフロイトの視点を再びトラウマへと向けさせ、強迫反復(再演)や死の欲動といった今日でもトラウマ巡る重要な概念の発見をもたらします。

またそのフロイトの精神分析を受けたエイブラム・カーディナーによるアメリカの復員軍人の治療の成果が、1941年に『戦闘の外傷神経症』として出版されています。カーディナーはこの本でフロイトの強迫反復を防衛ではなく自我萎縮によるというジャネ的な説明をし、また詳細なトラウマ性の悪夢の記載を行いました。この本は1947年に第二次世界大戦の症例を加えて第二版が出版され、トラウマ研究史の一つの金字塔として、現在まで続くPTSD症状の最初の出典となっています。

ベトナム戦争とDSM-3

第一次世界大戦が終わると、一旦トラウマ研究は下火になります。第二次世界大戦がさらに大きな規模で生じることになりましたが、その衝撃があまりに大きかったせいか、思想・文学・芸術・政治という領域において凄まじいインパクトを残した一方で、臨床分野では不可解なほどそれが語られることはありませんでした。

例外としてヴィクトール・フランクルのロゴセラピーを挙げることができますが、これもトラウマ臨床というよりもより広い文脈をとらえたものであり、彼の主著である『夜と霧』も臨床の記述というよりも文学的作品としての評価が高いのが実際です。

冒頭で引用した後にノーベル文学賞を受賞するカート・ヴォネガットはアメリカ兵としてヨーロッパ戦線に従軍し捕虜となった際、ドレスデン爆撃を経験して現在から見るとPTSDとなりますが、その体験をSFのガジェットを使用して『スローターハウス5』として作品として形にできたのは1969年です。第二次世界大戦の衝撃はあまりにも強く、そこに戦後の事情も重なり、そのトラウマはナラティブ化が非常に困難なものであったと言えるでしょう。

トラウマが再び社会問題となったのは、ベトナム戦争においてでした。ベトナム戦争は1964年から始まりましたが徐々に泥沼化し、やがてアメリカの国内外で反戦運動が高まることになりました。そして1970年代に入ると、映画「ランボー」で描かれたような、ベトナムの戦争帰還兵の自殺・反社会的行為・奇行の流行が大きな社会問題となっていました。

まさにその最中、精神医学の歴史的転換となるアメリカ精神医学会による『精神障害診断統計マニュアル第三版』すなわちDSM-Ⅲの作成が始まったのです。これは向精神薬など新しい治療法の確立のために信頼性と妥当性を高めた「操作的診断基準」を採用したという点で非常に画期的であったのですが、これはフロイト的な不確かな病因論に基づく神経症概念の破棄という側面をも含むものでした。そのため、病因論を明確に採用したPTSDという診断カテゴリーは、このDSM-Ⅲの思想と根本的に相いれず、当初の構想には入っていませんでした。

しかし広島で原子爆弾投下の被害者の研究を行い、当時ベトナム戦争帰還兵を調査していたロバート・リフトンは、「ポスト・ベトナム症候群」を提唱していたハイム・シュタインとともに、DSM-Ⅲの中にその後遺症を扱う診断カテゴリーを採用するように委員会に働きかけたのです。

当初、それらはDSM-Ⅲが排除しようとしている神経症概念であるとして難色が示されました。戦争帰還兵の精神保健は政治的に粗略に扱えない問題であるため、「戦闘後症候群」の採用が検討されることになりました。そしてその後災害ストレス研究も合流して拡張され、最終的にDSM-ⅢにおけるPTSD概念の採用に至ったのです。

DSM-ⅢにおけるPTSDの採用は、トラウマ研究における最も重要な分岐点の一つになりました。DSMはその後改訂を続け精神医学の中で大きな成功を収めることになります。その中に例外的に病因論を採用したPTSDという診断名が含まれることになったということが、今日の状況に大きな影響を及ぼすことになったのです。

フェミニズムと偽りの記憶

フロイトがヒステリーの原因を実際の性的被害からファンタジーへと変更して以来、その体験は再び抑圧され続けられることになりました。1970年代になり、フェミニズム運動によってその流れが変わります。

女性の最深層の欲望を満足させるものであるというレイプへの男性視点の見方を、女性にとっては生命の危険を覚える事件として体験されているのだと正しく主張し、フェミニストはレイプを性行為の一種ではなく暴力犯罪の一種であるとしたのです。

またこの流れから、家庭内暴力と小児の性虐待の問題へと光があてられ、被害者たちが19世紀末に記述されたヒステリーと同一の症状を示すことが明らかにされました。またレイプ被害者・DV被害者・小児の性虐待被害者の後遺症が、PTSDと診断された戦争帰還兵が示す症状とも本質的に同一であることが示されました。

これらを元に、精神科医のジュディス・ハーマンは1992年に出版された『心的外傷と回復』の中で、PTSDをさらに拡張した「複雑性PTSD」の概念を提出することになったのです。

ハーマンは複雑性PTSDのDSM-Ⅳへの採用を目指しましたがそれは認められませんでした。この理由としてはその時点での研究の蓄積の不足も挙げられますが、この病因論に基づく疾患を採用すると、うつ病・双極性障害・不安障害・境界性人格障害など多くの疾患がそれで説明できてしまい、結果としてDSMの根本である操作的診断基準を脅かすものとなってしまうことも影響したと考えられます。

しかしDSM-Ⅳへの採用が見送られたものの、この複雑性PTSDの概念によって、ようやく重複した性被害や虐待の後遺症の治療の道が切り開かれることになったのです。

その一方で、フェミニストによる告発となったこの動きは、強力な「バックラッシュ」を引き起こすことになります。それが「偽りの記憶」論争と呼ばれるものです。

これは成人後にかつての性的虐待の記憶を思い出した子どもが親を告訴した際に、親側がそれはフェミニスト的な精神科医やセラピストから植え付けられた「偽りの記憶(false memory)」だとして反論したことから生じた法的領域を巡る大論争です。とりわけ心理学者のエリザベス・ロフタスは、存在しない記憶を被験者に植え付けることに成功したという実験結果をもとに親側についたことで有名です。

この論争は1990年代から2000年代にかけて法廷で繰り広げられ、記憶の抑圧と解離、事後性、PTSD概念における病因論、被暗示性の亢進などトラウマを巡る問題の特殊性に、宗教的・政治的な問題も加わって非常に複雑な様相を呈することになったのです。

 近年の動向と複雑性PTSD概念の確立

しかしながら、トラウマの実体性と補償を巡る議論は19世紀末から繰り返し述べられていたことであり、その特殊性もヒステリーの観察から記述されてきたものばかりです。さらにはトラウマの発見とその反動としての隠匿も、フロイトの転向や第一次世界大戦の戦闘神経症において見られてきた鏡写しです。ハーマンは「歴史はトラウマを繰り返し忘れてきた」として、「外傷の弁証法は続いている」と述べたのです。

「偽りの記憶」論争における実際の判決は、最初は子ども側に有利な判決が多かったものの、徐々に親側の主張が認められるようになっていくことになりました。

しかしまた2010年代に風向きが変わります。その例としては、まずはカトリック司祭の性的虐待のスキャンダルがあり、#me too運動の広がりによって過去に性的被害が多く実在したことが知られるようになってきています。

そうした背後で、ヴァン・デア・コークが『身体はトラウマを記録する』にまとめたように、脳画像診断などをはじめとしたトラウマの科学的研究で多くのことがわかってきました。

それらの成果も影響し、DSM-5は複雑性PTSDを診断名としては収録しなかったものの、PTSDの解離性のサブタイプを設けることで、複雑性PTSDの要素を取り入れてPTSD概念を再構築しました。

その一方でICD-11は独立した診断名として複雑性PTSDのカテゴリーを作成することになったのです。トラウマや虐待がもたらす影響が幅広く知られるようになり、複雑性PTSDの概念が確立したというのが現在(2023年)の状況であるということができると思います。

日本におけるトラウマ研究の近年の動向

最後に日本におけるトラウマ研究の近年の動向について簡単に振り返りましょう。かねてより、第二次世界大戦や二度の原爆投下を経験し、DSM-3におけるPTSD概念の成立に繋がったリフトンの調査などがあったにもかかわらず、日本においてはトラウマへの関心が低かったことが言われています。

ターニングポイントとなったのが、1995年の阪神・淡路島大震災です。これをきっかけにPTSDという言葉が本邦でも広まることになりました。そして翌年に中井久夫の訳によって『心的外傷と回復』が出版されることになります。

フェミニズムの色が強いこの著作が、代表的な精神科医によってその重要性が認識されて翻訳されたということは、本邦のトラウマ概念の受容において大きな意味を持つことであったと言えます。その後、男女共同参画社会基本法、児童ポルノ法と児童虐待防止法、DV防止法などの法律が相次いで制定され、トラウマを生むような被害の防止のための法整備が進んでいくことになります。

その一方で「偽りの記憶」論争は日本にも伝わり、この時期には「トラウマという概念は既に欧米では否定されている」という言説がなされ、それを広める本も出版されました。しかし現在(2023年)から見るとその内容はあまりにも多くの間違いが含まれていると言えます。

その後、日本でも#me too運動が広まり、また男性アイドルグループ事務所の創立者による性加害の問題が明らかになるなど、本邦でも欧米と歩みを重ねた状況となったと言えるでしょう。

そして2011年の東日本大震災・福島原子力発電所事故が起こり、大きなトラウマ体験となったことはまだ記憶に新しい人も多いはずです。そして2010年代以降、コークの『身体はトラウマを記録する』をはじめとして、トラウマ関連の著作の翻訳や日本語での著作の出版が相次ぐことになり、専門職の間で定着しつつあると言えます。

これらの動きが結局は今までと同じく一過的となってしまうのか、それとも根本的に精神医学・臨床心理学を変えていくものとなるのか、その行く末はまだ不透明です。

参考文献

J.ハーマン,中井久夫訳『心的外傷と回復』(みすず書房)
原田誠一編『複雑性PTSDの臨床:心的外傷〜トラウマの診断力と対応力を高めよう』(金剛出版)
M.ミカーリ,P.レルナー,金吉晴訳『トラウマの過去:産業革命から第一次世界大戦まで』(みすず書房)
斎藤学『封印された叫び:心的外傷と記憶』(講談社)
森茂樹『トラウマの発見』(講談社)
A.ヤング,中井久夫監訳『PTSDの医療人類学』(みすず書房)

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