織部焼 おりべやき

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鶴田 純久の章 お話

瀬戸系の陶窯で茶人古田織部正の好みによって焼成された陶器。
今でいう織部焼は本来の織部焼の一部分だけについていう名称で、本来の織部焼はいわゆる志野焼を包含し、安土・桃山時代の瀬戸焼の主流となるものであります。
織部焼の盛時は瀬戸窯芸史を通じて最も絢爛な歴史的一時期であったとされます。
『茶碗茶入目利書』に「織部、四通有、志ノ、鳴海、瀬戸、絵之手、惣体厚く出来いひつ形多ク絵有モ有絵ハ土必見志ノ土見ル黒土見る薬ハ白薬薄柿色有」とあり、織部焼をこのように四通りとすることが古く行なわれていたが(「志野焼」の項参照)、今日分けられる狭義の織部焼の種類は後掲の通りであります。
狭義の織部焼は従来の黄瀬戸・志野焼の素朴な装飾法および形状にあきたらず一歩進展した新製品で、色釉・文様・形状に技巧を凝らして複雑な効果を求めるようになりました。
形状は一般に歪んで異風であり、多角のものが多く奇矯を極めています。
色彩は黒・濃緑・赤など多種多様で、これらの色釉を施す時も主に染め分けなどの技巧を用いました。
銅緑釉を染め分けにする際などはその釉色を鮮明にするため、その部分には白土を用い、これに対応して無色釉の部分には赤土を用いるなど、一個の器物を二種の土を継ぎ合わせてつくっています。
後人は誤ってこの銅緑釉を織部釉と称し、全部に緑色を施したものを総織部と称するようになりました。
文様は多種多様で、写生風に近いものもあり、また異国風のもの、幾何学的図案などをみます。
焼成はほとんど酸化焔焼成で、火度は一概には断定し難いが黄瀬戸・志野に比べていささか低いです。
今日織部焼と称するものは、茶入などよりも主に茶碗・向付・皿・鉢・徳利の類に特徴を現しています。
型作りの手法は黄瀬戸・志野にはみられませんが、織部焼では盛んに行われました。
美濃久尻元屋敷(岐阜県土岐市泉町久尻)の窯跡から織部の破片がおびただしく出土しましたが、この窯は尾張・美濃に移入された唐津風連房式登窯の最初のもので、年代は慶長(1596i1615)の初年から遅くともその中期を降らず、旧来の瀬戸式の単室半害窯の窯跡から織部焼が出ないところをみますと、織部焼はこの元屋敷の唐津から新来した連房式の登窯で始まったものらしく、近隣の大富・大平・大萱・姫から尾張の赤津・品野などに及び、慶長から寛永(1624-44)の頃まで盛んに焼かれました。
しかし酸化焔焼成によるため質が堅緻にならないのと、装飾か多彩にすぎて華美に走りすぎたのと、形状が奇抜すぎて実用に遠い感じがするのとにより、次第に飽きられついに製造か絶えてしまいました。
その後百四十年を経た天明(1781-9)の頃瀬戸北島で織部焼は再び盛んに焼出されました。
ここの製は前期美濃の製とは異なり、青緑釉の各所に点々と菊花の紋章を描き出したもので、印花文または貼り付け装飾をなし、これに全部青緑釉を施したものが多いようです。
しかし染付の製が起こって織部焼は再び駆逐されました。
なお幕末に赤津で春岱が美濃風の織部焼を盛んに模して名高いです。
[黒織部]または織部黒。
茶碗が最も多く形状はほとんどすべて沓形であります。
総体の黒は鉄釉によるもので、焼成中鉄鈎で引き出しただちに水中に入れて急冷して得る呈色で、いわゆる引き出し黒の一種であります。
製は堅緻でなく、そのため作品はほとんど抹茶碗に限られています。
装飾には諸種の間取りの中に簡素な花弁を描いたものが多いようです。
山道茶碗と称するものは黒の中に白い不規則な紐状の線を現したものであります。
「瀬戸黒」「引き出し黒」の項参照。
「青織部」今でいう織部焼は主に青織部を指します。
向き付・鉢・徳利の類が多いようです。
銅緑釉は多くなだれ釉とし、あるいは片身替わりに施します。
片身替わりの時素地に二種の土を用いることは前に述べました。
この際半面には鉄砂で文様を描き薄く白釉を施します。
型物には布目のあるものが多いようです。
型から離れやすいように布を被せたのであります。
この布目がまた一つの装飾となります。
いわゆる総織部には釉下に線刻文または印花文のあるものか多いようです。
【赤織部】青織部の白い部分が赤いもので青織部の一種ともいえます。
この赤は地土に含まれた鉄分の酸火焔焼成による発色であります。
赤い地土に白土で文様を描きその上にさらに鉄砂をあしらい、白土・鉄砂の併用によって装飾効果の複雑化を求めました。
特に型物の布目のあるものが多いようです。
【絵織部】鉄砂または赤楽色あるいは銅緑の絵具でいわゆる織部文様を施したものです。
絵唐津・絵瀬戸に類似したものがありますが、形が一般に奇矯で文様もまた独特の特徴があります。
地土は白または赤。
赤土の上に白土・鉄砂その他の絵具の併用による文様を描いたものを織部染付といいます。
【鳴海織部】尾張国鳴海(名古屋市緑区鳴海町)で焼いたものです。
『茶器弁玉集』に「土薄浅黄にて薄手に造る見事なる茶入一通あり、代高し、稀なり」とあります。
「唐津織部」古田織部が唐津で焼かせたものと伝えられます。
伝来しているものがまれなので断定し難いですが、志野焼茶碗を彷彿させるものがあります。
【伊奈織部】慶長中期に瀬戸系の窯で伊奈備前守忠次が焼かせたものといわれるが不詳。
※きぜと※しのやき※せとやき※ふるたおりベ

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