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数多くある日本のお城のうち、国宝に指定され、さらには世界文化遺産にも登録されている姫路城。今も残るその白く美しい天守が非常に有名なお城ですが、見た目以外にも今世に伝わる歴史的逸話や不思議な言い伝えまで、様々な魅力が多いお城です。こちらでは姫路城をもっと楽しめるようになる、姫路城にまつわる豆知識や、観光のコツをご紹介していきます。

安賀川 国光と桃原 ふね
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姫路城(国宝5城)

姫路城(国宝5城)

日本の城で古い天守が現存する12城のうち、国宝に指定されているお城が5つあります。兵庫県姫路市にある姫路城もそんな【国宝5城】のひとつです。その白く美しい見た目から、別名「白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)」とも呼ばれ、ユネスコ世界文化遺産にも登録されています。

国内だけでなく、世界からも多くの観光客が訪れる姫路城には、語り継がれる歴史的逸話や伝説がたくさん。逸話の数々を知ってから姫路城を訪れれば、”美しさ”だけではない姫路城の魅力が見えてきます。もちろん、姫路城散策のコツもご紹介していきますので、観光の計画を立てる際の参考にしてみましょう。

知れば得する「姫路城の基礎知識

知れば得する姫路城の基礎知識

一大観光名所として、その名をはせる姫路城。真っ白の外観が有名な姫路城ですが、かつては全く違う見た目の城でした。ここでは、姫路城が白鷺城と呼ばれるまでの歴史をはじめ、世界遺産への登録についてなど、姫路城の基礎知識をご紹介していきます。

数々の城主が姫路城を守ってきた

一般的な日本のお城と言えば、「お城の名前」と「城主となった家の名前」が一緒に広まっているものですが、姫路城は城名の知名度は非常に高い一方で、誰が城主だったのか、あまり知られていないのが現状です。それもそのはず。姫路城は決まった家系が治め続けたお城ではなく、数々の家が代わる代わる城主を務めてきました。

1333年(元弘3年)に姫山に砦が作られてからは、13氏・48代が城主を務め、代表的な家柄だけでも、赤松氏・山名氏・黒田氏・羽柴氏・池田氏・本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏が歴代の城主として姫路城を治めていたという史料が残っています。最終的には酒井氏が版籍を国に返還し、姫路城は国有のお城となりました。

現在、私たちが見ることのできる姫路城は、関ヶ原の戦い後に城を治めた池田氏による大改築をしたあとの姿のため、池田氏以前の面影はあまり城内に残っていませんが、本丸の基礎部分などに残された構造は、羽柴氏の時代に造られたものであり、今も変わっていません。

石垣では羽柴時代~池田時代~(そのあとの)本多時代と3つの時代によって変化した石の積み方を見ることができ、数々の城主が城を治めてきた変遷を感じることができるようになっています。

姫路城が白く美しい城になるまで

姫路城のはじまりは1333年(元弘3年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を討幕する戦いで天皇側として赤松則村(円心)が挙兵したときに、姫山に建築した砦だと言われています。

このときは城という程の建物ではなかったものの、のちに則村の息子である赤松貞範が姫山に本格的な城を建築。これが姫山に建築された最初の城です。当時の呼び名は、「姫路城」ではなく「姫山城」というものでした。

その頃も、今のような形ではなく、屋形のような建物だったと言われています。それから歴代の城主が増築や改修を繰り返し、姫路城は現在のような形になりました。

数々の改築の中でも、羽柴秀吉の行なった大改築は小さな田舎城にすぎなかった姫路城に3層の天守閣を作り、姫路城を近代城郭の域にぐっと押し上げたと言われています。「姫山城」という呼び名が「姫路城」に変化したのも、この頃です。

その後、関ヶ原の戦いを経て、城主となった池田輝政が行なった大改築のときに、城壁や屋根が真っ白になり、今の「白鷺城」と呼ばれる外観になりました。

なぜ白鷺城と言われているのか

池田輝政が築いた姫路城は、「白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)」という方法で作られ、外壁を白漆喰で塗り込めることに加え、屋根瓦の目地にも白漆喰を使用しています。真っ白な天守群がそびえ立つ姿が、まるで白鷺が羽を広げているように見えたことから、「白鷺城」の呼び名が付きました。

他にも、お城の周りに白鷺がたくさん生息していた・お隣にあった岡山城では黒い板張りの城が「烏城(うじょう・からすじょう)」と呼ばれ、それと対比させたため…など様々な説が存在します。

それまでの時代、お城と言えば「黒」を使用して建築するのが一般的。にもかかわらず、真っ白なお城を築いたのは、輝政が戦国時代の終わりを予感して、「武による統治」ではなく「美による威嚇」が必要になると考えたからとの説が有力です。輝政がこだわった「まばゆい白色」は、その美しさで城の威厳を表す大事な要素となっていました。

日本初のユネスコ世界文化遺産に

池田輝政が築城した美しい「白鷺城」は、幾度にも亘る修理工事を経て、その姿を今世に残しています。1931年(昭和6年)には天守閣が国宝に指定され、1993年(平成5年)にユネスコ世界文化遺産に登録されました。法隆寺とともに、日本で初めて世界文化遺産に登録された建造物です。

登録の理由として「美的完成度が国内の木造建築の中で最高の位置にあり、世界にも他に類を見ない程、優れている」「現存する最大の城郭建築であり、17世紀初頭の特質をよく表している」「天守だけでなく、櫓や塀、門、石垣、堀などの土木工作がとても良い保存状態で残っている」などが挙げられます。

姫路城管理事務所、資料室には世界遺産に登録されたときの登録証のコピーが展示。訪れた際にはぜひこちらも見てみましょう。

【施設情報】

姫路城は「ここがすごい

姫路城はここがすごい歴史的逸話

姫路城がたくさんの人から愛されている理由のひとつには「歴史的逸話がいくつも残っている、物語性の非常に高いお城だから」という点があります。今の時代まで語り継がれている姫路城の「本当にあったすごい話」をご紹介しましょう。

奇跡が繋いだ「不戦の城」

姫路城には白鷺城という通称の他に、「不戦の城」という呼び名があります。築城以来、ほとんど戦争に巻き込まれることがなかったことから、この名称が付きました。戦争で城郭に大きな被害がなかったことも、保存状態の良さに繋がったと言われています。

その姫路城が巻き込まれてしまった数少ない戦争のひとつが、第2次世界大戦です。当時、姫路市街に米軍による空襲が行なわれました。姫路城の天守にも焼夷弾が落とされ、城郭の存続が危ぶまれたのですが…なんと、天守に落ちた焼夷弾は不発

姫路市内にある建物のほとんどが空襲で焼けてしまった中、姫路城の天守は「落ちた焼夷弾がたまたま不発弾だった」という偶然によって、焼けることはありませんでした。

焼け野原となってしまった街の中心に、姫路城の天守だけが堂々とそびえ立っている当時の写真が今も残っています。姫路城が「不戦の城」になれたのは、このような奇跡がもたらしたものと言えるでしょう。

歴史上のあの有名人も姫路城ゆかりの人

歴史上に名を残す有名な人物の中には、姫路城と深い縁を持つ人も数多くいます。大河ドラマの題材にもなった戦国時代の名軍師・黒田官兵衛は、なんと姫路城生まれ。祖父の黒田重隆と父の職隆が姫路城の城主を務めており、「孝高(官兵衛)が姫路城で生まれた」という文献が残っています。

その官兵衛が、「毛利(中国地方の武将)攻略のためには姫路城を基点にするのが良い」と姫路城を譲り、城主となったのが羽柴(豊臣)秀吉です。秀吉の家臣だった官兵衛は城を譲るだけでなく、秀吉の大改築にもたくさんの案を提供したと言われています。

そして、姫路城ゆかりの人物は男性だけではありません。徳川家康の孫・千姫も姫路城に深い縁を持つ人物です。秀吉の息子・秀頼と結婚した千姫は夫の秀頼に先立たれ、わずか18歳で未亡人となってしまいます。その後、千姫は本多忠刻と再婚。彼の父親(本多忠政)が姫路城の城主になると同時に、千姫たち夫婦も姫路城に住み始めました。

今も残る姫路城の化粧櫓は、千姫の嫁入り時の持参金で建築され、実際に彼女が使った建物です。千姫と忠刻は美男美女のふたりと評され、姫路城での新婚生活は彼女にとって人生で最も幸せな時間だったと伝えられています。

市民にとても愛されたお城だった

姫路城は、街の象徴として長きに亘り市民に愛されてきました。お城の歴史の中には、市民の姫路城に対する強い愛を示す逸話がいくつか残っています。

明治40年代に入った頃、姫路城は著しい老朽化に見舞われてしまいました。屋根に雑草が生い茂り、瓦が落ちて壁は崩れるなど、その様子は「修復をしなくては到底保存できない」と新聞に写真入りで大きく報じられる程です。

これに危機感を覚えた当時の姫路市民は、姫路城を守るべく「白鷺城保存期成同盟会」を結成。「姫路城を守ろう」と訴え、姫路出身の陸軍次官たちの協力を得ながら政府に姫路城の救済を願い出ました。

姫路市民からはじまったこの運動は、やがて国会をも動かし、陸軍省による保存修理工事へと繋がります。この工事は「明治の大修理」と呼ばれ、ボロボロだった姫路城はもとの美しい白漆喰の姿を取り戻すことができました。

さらに、第2次世界大戦時には、空襲の標的にならないように市民たちが姫路城を黒い布で覆い隠そうとしたという話も残っているのです。

実は不思議な場所だらけ「姫路城に残る伝説

実は不思議な場所だらけの姫路城に残る伝説

姫路城の中にある様々な建造物や施設の中には、不思議な話が残っている人気スポットがいくつかあります。実は、姫路城は伝説の宝庫。武勇伝から怪談話まで、姫路城にまつわる伝説をいくつかご紹介していきましょう。

「播州皿屋敷」のお菊井戸

姫路城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」は、有名な「播州皿屋敷」のお話の中に登場する井戸だと言われています。

「播州皿屋敷」は江戸時代後期に流行し、現代にも語り継がれている、とても有名な怪談話です。室町時代、姫路城執権の鉄山(てつざん)という男が、城主を毒殺して姫路城を乗っ取ろうとすることを計画。鉄山の不穏な動きを察した城主の家来・衣笠元信は自分の愛人だったお菊を鉄山のもとに女中として送り込み、スパイ活動をさせました。しかし、そのスパイ活動が鉄山の家来にばれてしまいます。

その家来に「スパイ活動を内緒にする代わりに、自分のものになれ」と、何度も言い寄られましたが、お菊はそれを拒否。怒ったその家来は、お菊が預かるように命じられていた10枚の家宝の皿から1枚を隠し、その罪をお菊になすりつけ、彼女を殺害。古井戸に投げ込んでしまったのです。

それからというもの、夜ごと井戸の底から「1枚、2枚、3枚…」とすすり泣きながらお皿を数えてくる声が聞こえてくるようになったと言われています。このお菊が投げ込まれた井戸だと伝えられているのが、姫路城の「お菊井戸」です。

天守に棲む妖怪を宮本武蔵が退治した

国宝にも指定されている姫路城の天守には、宮本武蔵にまつわる妖怪伝説が残っています。

それは、木下家定が姫路城の城主を務めていた時代の話。姫路に立ち寄った宮本武蔵は名前を変えて正体を隠し、天守の警備をする足軽組に奉公をしていました。当時「姫路城の天守には妖怪が出る」という噂が流れ、他の足軽たちが見張りを嫌がる中、武蔵だけは噂を気にもせず、平気で夜の見張りを続けていたのです。

武蔵は家老から妖怪を退治するように命じられ、妖怪がいると噂される天守閣最上階に妖怪退治へ向かいます。たびたび起こる怪奇現象にも怯えることなく、武蔵は明け方まで妖怪を退治しようと番を続けました。そんな武蔵の前に、姫路城の守り神だと言う美しい姫が現れ、妖怪退治の褒美を差し上げますと言い、姿を消したのです。そこには白木の箱に入った名刀が残されていたと言われています。

現在、姫路城の天守閣最上階にある刑部神社は、武蔵の前に現れたとされる刑部明神の御社。もちろん参拝もできますので、訪れた際は一度、刑部明神にご挨拶をしておくのも良いでしょう。

城主を悩ませていたのは領民の怨念だった

池田輝政が城主となり、姫路城を真っ白な城へと改築を進めていた1609年(慶長14年)。天守も完成して工事もひと段落ついた頃、城内で輝政に宛てた奇妙な手紙が発見されます。

それは「輝政と妻には天狗が取り憑いていて、呪いをかけようとしている」などという不気味な内容でした。この内容を受けて領民たちが、「(秀吉の時代に)お城を築くために、姫山にあった刑部神社を総社に移した祟りだ」と噂したため、輝政は刑部神社を城内(「とノ三門」内)に移して祀ります。

これで祟りは起こらない…と思いきや、2年後の1611年(慶長16年)に輝政は重い病気で倒れ、2年後に病死。その後、輝政の子供たちも若くして死んでしまう事例が相次いだのです。

なぜ、こんなにも輝政も周りに不幸が続いたのか、実に奇妙な話。一説には、輝政が行なっていた年貢の2割増し徴収など過酷な領民への支配があり、それに苦しんだ領民たちの怨念が、歪んだ形で輝政のもとに表れたのではないかと言われています。

姫路城は「難攻不落・最強レベルの要塞」だった

姫路城は難攻不落・最強レベルの要塞だった

「不戦城」と呼ばれる程、戦争とは縁遠かった姫路城ですが、お城自体は戦争に備えて建築されており、敵から攻められないように、ありとあらゆる仕掛けが城郭内に張り巡らされています。戦争でその効果を発揮することがなかったため、歴史上あまり注目されることはありませんでしたが、姫路城は非常に優れた要塞と言えるでしょう。

ここでは、姫路城内にある様々な要塞としての仕掛けをご紹介。観光の際「ここはこういう仕掛けなんだ」と知りながら城内巡りをすると、美しさだけではない姫路城のもうひとつの顔が見えてくるでしょう。

白漆喰の本当の役割

姫路城の天守の外壁は、木や竹で作られた骨組みに壁土を塗り、その上に漆喰を塗り固める構造で造られています。防火性・耐火性に優れた漆喰を、燃えやすい木材などの上に塗り固めることで、壁面自体の耐火性を上げる建築技法です。

この技法は、もともと蔵や倉庫の壁に用いられることの多い方法でした。本来、蔵などの壁に使われるこの技法を、輝政が姫路城の城壁に利用したのは、主に鉄砲で攻められたときへの備えだと言われています。「美による威嚇」を意識した白漆喰は、実用性も兼ね備えた手法です。

姫路城を守るお堀

姫路城内にはお城の中心を守るための内堀と外堀がありました。姫路城の堀は最大で幅34.5m(平均幅は約20m)、深さは約2.7mあり、歩いて渡ることは不可能。向こう岸に渡って攻め入るためには堀にかかったを渡らなくてはなりません。戦争のときに敵が攻めてくる場所が狭まることに加えて、橋を壊してしまえば、敵がお城に侵入することは困難です。

現在、外堀はほとんど埋められてしまっていますが、内堀は今でも残されており、その広さを体感することができます。「実は内堀のどこかには、水深たった30cm程の場所があって、いざという時に殿様がじゃぶじゃぶと歩いて逃げることができるようになっていた」という話が伝わっていますが、真偽の程はいまだ明らかになっていません。

城内はまるで迷路のよう

万が一、敵が侵入してきた場合に備えて姫路城内は本当に複雑な作りになっていました。数多くの屋敷と門が敷地内にあり、その間をすり抜けるように作られた道は、狭くなったり曲がりくねっていたり、敵を混乱させる迷路のような構造。

それ以外にも、「天守が見えているのに、遠回りをしなければ前に進むことができない場所」や、「姫路城の天守(姫路城を守る側の軍)に背を向けなければ、前にも後ろにも進めない道」など、その工夫は多岐に亘ります。

現在、21が残っている城内の門も、それぞれに戦争に備えた工夫が施された“城を守る門”です。敵がひとりずつしか通れない極端に狭い門(「ほの門」「水三門」など)は、攻められたとき時間稼ぎをするため、2階建てになっている門(「にの門」)は、2階の床を取り外し、下をくぐり抜ける敵に向かって槍を落とすための構造だったと言われています。

また、多くの門がいざという時に埋めることができる構造になっており、天守に続く道そのものを塞いでしまおうという考えでした。このように道や門に施された数々の仕掛けに注目していくと、姫路城が要塞としていかに優れていたのかを知ることができるのです。

姫路城「お役立ち観光情報

姫路城のお役立ち観光情報と使えるアプリやサイト

こちらでは、姫路城の観光情報をいくつかご紹介。抜群の写真が撮れる絶景スポットから、気になる混雑状況まで、実用的なものを揃えました。

これらの情報を活用すれば、見どころ満載の姫路城をより楽しむことができるようになります。

混雑状況はサイトでチェック

姫路城の混雑状況は、「世界文化遺産・国宝 姫路城 便覧」というサイトで確認することができます。こちらのサイトでは、「ただ今の来城状況」が随時更新され、入城口までの待ち時間や(入城口から)天守閣入り口までの待ち時間が、ほぼリアルタイムで表示。

時間のずれが少ないので、観光の計画を立てる手助けをしてくれます。それだけでなく、1ヵ月単位の混雑予想や年間混雑予想<も、こちらのサイトで調べることができるので、旅行の計画を立てる際の参考にしましょう。

最新技術で姫路城の歴史を解説

実は、姫路城にはスマートフォンでダウンロードできる公式のアプリがあります。「姫路城大発見アプリ」というこちらのアプリは、AR(拡張現実)を使って姫路城の歴史を知りながら、城内巡りをすることができるアプリです。

姫路城内のいくつかのスポットにある「AR」と書かれたマークに、アプリの指示に従ったスマホをかざしてみると、スマホ画面内に動画やアニメーションによる解説が登場。

今はなくなってしまった建物の復元CGや当時の暮らしを再現した動画で、自分のいる場所は、どう機能していた場所なのか、当時の人々がどんな生活をしていたのかを知ることができます。

現地を訪れ、その場で解説をしてもらえるので、姫路城の歴史をより分かりやすく学べるアプリです。無料でダウンロードできます。

姫路城の写真を美しく撮影するならココ

広い姫路城の敷地内には、白漆喰の天守をより美しく写真に収めることができる絶景スポットがあります。中でも、個性的な天守を撮影できると人気の場所が以下の3つです。

まずひとつ目は、入城口からほど近い場所にある大きな池のような堀「三国堀」。ここからは、天守とそれを囲むお城の塀、さらには三国堀を一度に撮影することができる人気の場所です。天候次第ではあるものの、運が良ければ堀が鏡のようになり、水面に映った逆さまの天守を、一緒に写真に収めることができます。

2つ目は、その三国堀の近くにある「西の丸広場」で、凛々しい松の木とその奥に立つ天守を望む絶好の場所。西の丸広場から見る天守は、その美しさから時代劇のロケなどによく使用されています。

最後にご紹介するのは、お城の中心部に近い「備前丸」。現在広場になっている備前丸は、姫路城の天守をちょうど真下から見上げる位置にあるので、天守以外の物が画角に入ることなく、青空に向かってそびえ立つ大迫力の天守を撮影可能です。

もちろん、城内で天守を望む場所はこれだけではありません。自分だけのお気に入り写真が撮影できる場所を探してみるのも、姫路城観光の楽しみのひとつです。

※この記事は、2018年4月時点の情報に基づいて作成されています。

※当サイトは原則「リンクフリー」といたしております。

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