徳川家康と愛知県・静岡県

徳川家康と大樹寺
/ホームメイト

文字サイズ

「大樹寺」(だいじゅじ)は、現在の愛知県岡崎市に鎮座する寺院であり、創建したのは「徳川家康」の先祖「松平親忠」(まつだいらちかただ)です。創建以来、同寺院は松平氏の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々の墓がある寺院)となり、子孫となる徳川家康も住職「登譽上人」(とうよしょうにん)より「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど:戦国乱世を終わらせ、人々が豊かに暮らせる極楽浄土のような世を目指す)の教えを受けることとなります。自身の苦境を救った寺院として徳川家康は大樹寺を厚く信頼し、その遺言により歴代将軍の位牌を安置し、境内には数多くの重要文化財などが残されているのです。徳川家康にゆかりのある大樹寺とは、いったいどのような歴史を持つのか紐解いていきましょう。

武運長久の寺「大樹寺」の歴史

松平親忠による創建

大樹寺

大樹寺

大樹寺」(だいじゅじ:現在の愛知県岡崎市)は、「徳川家康」の5代前の先祖となる「松平親忠」(まつだいらちかただ)が創建。

創建した理由については、1467年(応仁元年)に松平親忠が尾張国品野(現在の愛知県瀬戸市)と三河国伊保(現在の愛知県豊田市)の土豪と戦った「井田野合戦」(いだのかっせん)にて亡くなった人々を弔うためでした。

8年後の1475年(文明7年)に、浄土宗の僧侶「愚底上人」(ぐていしょうにん)を招き、寺号を将軍の別称「大樹」からあやかり「大樹寺」と付けて開山したことがはじまりです。大樹寺は松平氏の居城「岡崎城」(現在の愛知県岡崎市)下に造られ、その菩提寺(ぼだいじ:先祖代々の墓がある寺院)として大切にされます。のちに江戸幕府を開く徳川家康にもゆかりのある寺院です。

桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)5月、「海道一の弓取り」とも称された「今川義元」(いまがわよしもと)が「織田信長」に破れる「桶狭間の戦い」が勃発。同戦いが起きたとき徳川家康は、今川氏の家臣として戦の最前線「大高城」(おおだかじょう:現在の愛知県名古屋市)に出陣していました。

徳川家康は織田軍が攻めて来る前に退却しなくてはならず、本来ならば今川氏側に退却すべきところを、自身の領地となる岡崎へと向かいます。しかし今川軍の残兵に囲まれてしまい、敵兵を避けるため大樹寺へ逃げ込んだのです。

徳川家康

徳川家康

最早、勝機はないと考えた徳川家康は先祖の墓前で自害を図ろうとしますが、大樹寺の住職「登譽上人」(とうよしょうにん)に引き止められます。そして登譽上人は浄土宗の教え「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど:戦国乱世を終わらせ、人々が豊かに暮らせる極楽浄土のような世を目指す)を説いて、徳川家康を励ましたと伝わるのです。

以来、徳川家康は旗印に厭離穢土欣求浄土を掲げるようになり、生涯の座右の銘としました。

月岡芳年 作「三河後風土記之内 大樹寺御難戦之図」

月岡芳年 作「三河後風土記之内 大樹寺御難戦之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

徳川家康の遺言

晩年の1603年(慶長8年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、13年後の1616年(元和2年)に「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県静岡市)で息を引き取ります。死の間際に徳川家康はいくつか遺言しており、そのひとつが父祖の地である岡崎の大樹寺に位牌を納めることでした。

大樹寺には遺言通り、初代将軍・徳川家康にはじまり14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)までの位牌を安置。位牌の高さは、臨終時の身長に合わせていると伝わります。また、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の位牌だけが安置されていません。その理由としては、将軍職を退いたあとも存命であったことと、「明治天皇」に配慮し仏式ではなく神式で葬られることを遺言したからだと伝わります。

大樹寺にゆかりのある寺院「西光寺」

松平親忠と千人塚

「千人塚」は、徳川家康の先祖・松平親忠が、井田野合戦の戦死者を弔うため1467年(応仁元年)に岡崎市鴨田町字向山に築いた供養塔になります。

しかし、8年後の1475年(文明7年)に、弔ったはずの戦死者が亡霊となって騒ぎ、さらには病まで流行してしまい、松平親忠は千人塚の近くに改めて念仏堂を建てて戦死者を鎮めることとしました。この念仏堂が現在の「西光寺」(さいこうじ)となります。さらに供養に招かれた人物が、のちに大樹寺の初代住職となる愚底上人です。

桶狭間の戦いと大衆塚

「大衆塚」は、徳川家康が大樹寺へと逃げ込んだ際の戦いで命を落とした僧達を葬った塚です。塚の頂上には石造りの「阿弥陀如来坐像」(あみだにょらいざぞう)が据えられ、背中には「永禄3年5月」と銘文が刻まれています。桶狭間の戦いがあった年月日であることから、同戦いで亡くなった人々を埋葬した塚で間違いないと推測されているのです。なお、阿弥陀如来坐像は岡崎市の指定文化財にも選ばれています。

松尾芭蕉50回忌の碑

大衆塚の手前には、俳人「松尾芭蕉」(まつおばしょう)が奥州を旅した際に詠んだ「夏草や兵どもが夢のあと」の句碑があります。句碑は、松尾芭蕉没後50年となる1743年(寛保3年)に岡崎に住む有志によって建立されました。

栄華を誇った奥州藤原氏一族や「源義経」(みなもとのよしつね)の最期を思っており、句の内容は「栄誉を極めたものの今は夏草が生えるばかりで何もない。まるで夢の跡のようだ」といった意味になります。桶狭間の戦いなど多くの死者を出した土地である西光寺だからこそ、その死を悼むために建てられたと推測されているのです。

大樹寺にある国指定重要文化財

多宝塔(たほうとう)

多宝塔

多宝塔

「多宝塔」(たほうとう)は、1535年(天文4年)に徳川家康の祖父・松平清康が建立した大樹寺最古の建物です。

建立時の時代を表すように室町時代後期の様式となり、内部には「多宝如来」(たほうにょらい)が安置されています。

屋根の造りは当初、「こけら葺」(こけらぶき)でしたが、現在は「檜皮葺」(ひわだぶき)です。

絹本墨画淡彩如意輪観音図(けんぽんぼくがたんさいにょいりんかんのんず)

本図は、観音が岩山に座る姿を描いた作品となり、鎌倉時代に来日した南宋の僧「鏡堂覚円」(きょうどうかくえん)の手による物。鏡堂覚円とは日本に禅宗をもたらした僧のひとりとしても知られ、本図は「建長寺」(現在の神奈川県鎌倉市)に住んでいた1299~1300年(永仁7年/正安元年~正安2年)に描かれたと伝わります。なお、本図は徳川家康の祖父・松平清康が大樹寺に寄進しました。

冷泉(岡田)為恭障壁画(れいぜい[おかだ]ためちかしょうへきが)

本障壁画は、1857年(安政4年)に復古大和絵の絵師「冷泉為恭」(れいぜいためちか)が描いた作品です。冷泉為恭が依頼される2年前の1855年(安政2年)に、大樹寺は火災に見舞われ本堂や大方丈(だいほうじょう)など主要な伽藍(がらん)を焼失していました。冷泉為恭は、大方丈の障壁画を復元するため大樹寺へと招かれ145面を完成させます。

大樹寺の大方丈を彩っていた障壁画でしたが、破損や劣化から守るため1978年(昭和53年)に取り外され収蔵庫で管理されることとなりました。現在、障壁画は完全非公開となり、代わりに複製作品の展示計画が進んでいます。

現在の大樹寺

大樹寺と岡崎城を結ぶビスタライン

総門から見える岡崎城天守

総門から見える岡崎城天守

大樹寺には、大樹寺三門から岡崎城を結ぶ眺望景観があり、これを「ビスタライン」と呼びます。

もともとは3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ:徳川家康の孫)が「祖父が生まれた地を望めるように」といった考えから、大樹寺の伽藍を再改修し造営したことがはじまり。

三門前から総門(現在の岡崎市立大樹寺小学校の南門)を通り、徳川家康が生まれた岡崎城天守を眺めることが可能です。

明治時代の「廃城令」によって城は一度解体され眺望も失われましたが、1959年(昭和34年)に再建されたことで眺望が復活。今もビスタラインを守るため岡崎市民協力のもと高層ビルやマンションなどの建築は控えられているのです。

徳川家康の遺徳を称える御神忌法要

大樹寺では毎年、徳川家康が没した4月17日にその遺徳を称え「御神忌法要」が開催されています。法要には、徳川家ゆかりの寺院住職、大樹寺の檀家、徳川家康を慕う参詣客が参列。賑やかな雰囲気でありつつも、厳かに執り行われています。

大樹寺の御朱印

大樹寺の御朱印(ごしゅいん)は、通常御朱印に加え、「三河三十三観音霊場の御朱印」、「法然上人三河二十五霊場」の御朱印3種類を頂くことが可能です。通常御朱印は、徳川家康が登譽上人から受けた教え、厭離穢土欣求浄土の文字が入ります。

アクセス方法

「大樹寺」の施設情報
施設名 大樹寺
住所 愛知県岡崎市鴨田町広元5-1
開門時間 4~9月:9~17時
10~3月:9~16時30分
拝観料 大人:400円
子供:200円(小・中学生は子供料金)
駐車場 無料(20台)
交通アクセス 愛知環状鉄道「大門駅」下車 徒歩12分
公式サイト http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/daiju_0.html
御朱印 有り

徳川家康と大樹寺

徳川家康と大樹寺をSNSでシェアする

「徳川家康と愛知県・静岡県」の記事を読む

徳川家康と久能山東照宮

徳川家康と久能山東照宮
「久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう)は、静岡県静岡市にある神社です。江戸幕府初代将軍「徳川家康」が亡くなったあとに埋葬された地として知られており、徳川家康は同神社の主祭神「東照大権現」として祀られています。また、久能山東照宮には徳川家康と深い縁を持つ刀剣が40振以上収蔵・展示されていることから、刀剣好きな人の間でも有名。久能山東照宮の歴史と、徳川家康と久能山東照宮の関係をご紹介します。

徳川家康と久能山東照宮

徳川家康と名古屋城

徳川家康と名古屋城
「名古屋城」は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の命により、九男「徳川義直」(とくがわよしなお)のために、江戸幕府の威信をかけて築かれた、絢爛豪華なお城です。現在の愛知県名古屋市に現存しますが、正しくは1959年(昭和34年)に再建されたお城。江戸幕府を開き江戸城を居城とした徳川家康は、どうして名古屋城を築く必要があったのでしょうか。徳川家康と名古屋城の歴史やエピソードについて、詳しくご紹介します。

徳川家康と名古屋城

徳川家康と岡崎城

徳川家康と岡崎城
「岡崎城」は、愛知県岡崎市にある「徳川家康」が生誕したお城です。徳川家康は、父「松平広忠」亡きあと、「今川義元」に引き取られ駿府城で暮らしていましたが、今川義元亡きあと、今川家から独立し、1560年(永禄3年)に岡崎城を奪還しました。しかし、10年居住したのち、この城から退去。どうして、徳川家康は故郷・岡崎城から離れてしまったのでしょうか。徳川家康と岡崎城について、エピソードと共に詳しくご紹介します。

徳川家康と岡崎城

徳川家康と駿府城

徳川家康と駿府城
「駿府城」(すんぷじょう)は、徳川家康が「終の棲家」(ついのすみか)としたお城です。1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任命され、江戸幕府初代将軍となった徳川家康は、2年後の1605年(慶長10年)には嫡男「徳川秀忠」に将軍職を譲ります。どうして、徳川家康は短期間で将軍職を譲り、駿府城に隠居したのでしょうか。徳川家康と駿府城について、エピソードと共に、詳しくご紹介します。

徳川家康と駿府城

徳川家康と三方ヶ原の戦い

徳川家康と三方ヶ原の戦い
戦国時代の三英傑のひとり「徳川家康」は、天下を統一して、日本に太平の世をもたらしたことで知られています。生涯で数々の合戦に挑み、多くの勝利を収めてきた徳川家康ですが、その中でも「最大の負け戦」と言われる合戦があったことをご存じでしょうか。徳川家康が天下を取るまでの道のりと、徳川家康・最大の負け戦として有名な「三方ヶ原の戦い」についてご紹介します。

徳川家康と三方ヶ原の戦い

徳川家康と小牧・長久手の戦い

徳川家康と小牧・長久手の戦い
「徳川家康」は、動乱の戦国時代を生き抜き、のちに乱世を太平の世へと導いた戦国武将です。「織田信長」や「豊臣秀吉」が生存していた頃は、2人の天下取り事業を陰で支えた功労者としても知られています。織田信長に恭順していた時代は、織田信長から厚い信頼を獲得して最後まで友好関係を継続しましたが、その一方で豊臣秀吉とは友好関係にありながらも対立していた時期がありました。それが「小牧・長久手の戦い」のときです。友好関係を築いていたはずの2人が、なぜ対立することになったのか。小牧・長久手の戦いの概要をご紹介します。

徳川家康と小牧・長久手の戦い

徳川家康を巡る旅~浜松編~

徳川家康を巡る旅~浜松編~
浜松(現在の静岡県浜松市)は、「徳川家康」が29~45歳という人生の中間期を過ごした重要な場所です。生まれ故郷の岡崎(現在の愛知県岡崎市)をあとにした徳川家康が拠点とした「浜松城」(静岡県浜松市中央区)をはじめ、徳川家康の命を救った伝説のクスノキがある「浜松八幡宮」(静岡県浜松市中央区)など、徳川家康の息遣いが感じられる市内の名所は枚挙に暇がありません。2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、主役を演じる「松本潤」さんの熱演も話題となり、ますます注目が高まっている徳川家康とゆかりの地・浜松についてご紹介していきます。

徳川家康を巡る旅~浜松編~

徳川家康を巡る旅~三河編~

徳川家康を巡る旅~三河編~
「徳川家康」は、乱世に生まれ、波乱に満ちた人生を送りながらも、平和な江戸時代を実現した戦国武将です。2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、主役の徳川家康を「松本潤」さんが演じており、注目度の高さも並大抵ではありません。「徳川家康を巡る旅~三河編~」では、「岡崎城」(愛知県岡崎市)をはじめとする徳川家康ゆかりの場所を巡り、生誕の地である三河国(現在の愛知県東部)で徳川家康がどのように運命を切り拓いていったのかを探ります。 徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。 岡崎城「岡崎城」の施設情報や口コミ、投稿写真、投稿動画をご紹介します。

徳川家康を巡る旅~三河編~

徳川家康を巡る旅~駿府編~

徳川家康を巡る旅~駿府編~
「徳川家康」は、8歳の頃に人質として「今川義元」(いまがわよしもと)に預けられたのち、19歳まで駿府(現在の静岡県静岡市葵区)で暮らしました。2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも、駿府は「松平元康」(のちの徳川家康/演:松本潤)の育った町として第1話から登場します。その後、戦国大名となった徳川家康は1586年(天正14年)に駿府を本拠地に定め、自ら築城した「駿府城」(静岡県静岡市葵区)へ入るものの、豊臣政権下では関東へ移封。しかし、江戸幕府を開いたのち大御所となった徳川家康はふたたび駿府へ戻ってくるのです。それほど深い縁を結んだ駿府(静岡市)とはどのような町なのでしょうか。駿府城をはじめとする徳川家康ゆかりの場所をご紹介していきます。

徳川家康を巡る旅~駿府編~