平安時代末期、6年もの間にわたって続いた「源平合戦」の口火を切ったのは、各地に散らばる源氏を蜂起させ、平氏追討の命を下した「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)です。この追討令を発した以仁王とはいったいどのような人物なのでしょうか。ここでは、源平合戦のきっかけとなった「以仁王」という人物の紹介と、皇族であった以仁王が武士である源氏と手を組み、当時の平氏政権に反旗を翻した理由とその影響について見ていきましょう。
「以仁王」(もちひとおう)は、1151年(仁平元年)に「後白河天皇」と「藤原季成」(ふじわらのすえなり)の娘「藤原成子」(ふじわらのしげこ)の間に第3皇子として生まれました。
なお、兄「守覚法親王」(しゅかくほうしんのう)が早くに出家したため、第2皇子とされている「吾妻鏡」などの資料も存在。同母姉には、歌人として著名な「式子内親王」(しょくしないしんのう)がいます。
幼少期に天台宗「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の住職「最雲法親王」(さいうんほうしんのう)の弟子となりますが、以仁王が11歳の頃に最雲法親王が亡くなると、還俗(げんぞく:僧になった者が僧籍を離れ、俗人にかえること)。1165年(永万元年)、15歳のときに、近衛河原にあった「大宮御所」で人目を忍んで元服しました。
以仁王は京都の三条高倉に住んでいたことから、「三条宮」や「高倉宮」とも呼ばれています。幼い頃より聡明で、学問や詩歌、特に笛や和歌などの才学に優れ、人望もあったため、次期天皇の有力候補でもありました。しかし、後白河天皇の女御(にょうご:高い身分の女官)で、寵愛を受けていた「平滋子」(たいらのしげこ:のちの建春門院[けんしゅんもんいん])の妨害を受け、「親王宣下」を受けられなかったのです。
親王宣下とは、天皇の皇子に親王、もしくは内親王の地位を与える宣旨を出すこと。さらに、母方の伯父である「藤原公光」(ふじわらのきんみつ)が失脚したことで皇位継承の可能性は途絶えてしまいました。
1179年(治承3年)、「治承3年の政変」が起こります。「平清盛」によって後白河院政が解体され、後白河法皇が幽閉されると、以仁王の知行であった「城興寺」(京都府京都市)領も没収。平氏政権はますます勢い付いていきました。
1180年(治承4年)、「源頼政」(みなもとのよりまさ)の進言に従い平氏討伐を決意した以仁王は、平氏追討の令旨を全国各地に雌伏する源氏に向けて発し、打倒平氏の挙兵を募ったのです。自らも挙兵を試みましたが、間もなく平氏側に計画の一部が漏れ失敗。
平氏の圧力がかけられた院宣と勅命により以仁王は臣籍降下(皇族籍を剥奪され、臣籍に降りること)され、以降「源以光」(みなもとのもちてる)と名乗ります。以仁王は平氏側の兵士から逃れるため南都の寺社を頼り奈良へ向かいましたが、奈良へ辿り着く前に宇治で交戦。追討軍に討たれ亡くなりました。
以仁王の令旨は「源平合戦」のはじまりとなる、歴史上でも重要な出来事です。令旨とは、皇太子や皇后、皇太后などの命令を公に伝えるために発行される文書のこと。
以仁王は、平氏政権が後白河法皇を幽閉したことや寺社の弾圧などの暴挙を理由に、平氏一門が天皇に逆らって王位を簒奪し、仏法を破滅させる存在であるとして1180年(治承4年)4月9日に「以仁王の令旨」を発令しました。全国各地に散らばる源氏と、平氏の専横政治を不満に思った大寺社に向け、平氏一門の討伐を命じたのです。
平安時代後期、「保元の乱・平治の乱」を経て、平氏政権が形成されました。平氏の棟梁であった平清盛は太政大臣にまで上り詰め、娘の「平徳子」(たいらのとくし:のちの二位尼)を「高倉天皇」(たかくらてんのう)の中宮にすると、平徳子は「言仁親王」(ときひとしんのう:のちの安徳天皇)を出産。
平清盛は天皇家と外戚関係を結び、権勢を盤石なものにしました。政界における平氏一門の地位も同時に上昇し、10数名の公卿、殿上人30数名を輩出。平氏政権の全盛期となっていたのです。
一方、平治の乱に敗れた源氏は、棟梁「源義朝」(みなもとのよしとも)が尾張国(現在の愛知県西部)で殺害され、長男「源義平」(みなもとのよしひら)は京都で処刑。次男「源朝長」(みなもとのともなが)も戦死していました。三男「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、平清盛の継母「池禅尼」(いけのぜんに)の助命嘆願により一命を取り留めたものの、伊豆に配流され、約20年間を伊豆で過ごすこととなります。
「源義経」をはじめとするその他の兄弟はそれぞれ寺に預けられ、源氏の一族は全国各地に離散していました。1177年(治承元年)、「鹿ヶ谷の陰謀」が起こったことにより平清盛と後白河法皇の関係は悪化し、平氏の専横が目立つようになっていきます。
平氏一門への不満が朝廷内に燻り、諍いの火種となっていたのです。治承3年の政変が起こると朝廷内の反平氏勢が台頭し、平氏を排除しようとする動きが活発化します。これに対し、平清盛は兵を率いて京都を制圧。後白河法皇は武力行使に屈し、今後は政務に介入しないと平清盛に申し入れましたが、平清盛は後白河法皇を幽閉してしまいます。
後白河法皇による院政は停止し、反平氏派の官僚31名が解雇されました。さらに、諸国の受領地が大幅に変更され、以仁王が長年治めてきた城興寺領も没収。平氏の知行国は、この騒動が起こる以前の17ヵ国から32ヵ国にまで増加しました。当時、日本は66ヵ国で成り立っていたため、このとき平氏の知行が日本国のおよそ半分に達していたことが分かります。
源頼政は「源頼光」(みなもとのよりみつ)の系譜である「摂津源氏」の一族で、代々大内守護(おおうちしゅご:禁裏を守護する役職)を務める家柄の棟梁です。平治の乱で平氏側に付いた源頼政は、以降も源氏の長老として政界に留まり、平清盛の信任を得ていました。
1178年(治承2年)には武士の最高位ともされる「従三位」に昇進。翌年には出家し、嫡男「源仲綱」(みなもとのなかつな)に家督を譲りました。源頼政は平清盛から破格の待遇を受けていましたが、以仁王に平氏追討の令旨を出すことを進言したのがこの源頼政だったのです。
動機について、軍記物語「平家物語」では源仲綱の愛馬を巡り、平清盛の三男「平宗盛」(たいらのむねもり)に侮辱された事件がきっかけだったとされています。この事件が事実であったかどうかは定かではありませんが、現在では平氏の専横や源氏に対するたび重なる軽侮があったことが原因となったのではないかと考えられているのです。
その他、源頼政が仕えていた「二条天皇」系とは異なる、高倉天皇に連なる安徳天皇の即位に反発したからであるという説もあります。一方、以仁王は学芸に優れた英明の誉れも高い人物でしたが、言仁親王(のちの安徳天皇)の皇位継承を確実なものとするため、平氏の圧力により30歳近くなっても親王宣下を受けていませんでした。
その後、1180年(治承4年)に安徳天皇が即位し、以仁王の皇位継承が絶望的なものとなります。そんな不遇を受けていた以仁王のもとに、源頼政・源仲綱親子が、源頼朝ら源氏の味方をして平家を討ち滅ぼすことを申し入れに来たのです。
平家物語によると、源頼政は平氏を滅ぼして帝位に就くことを勧めており、令旨を発すれば全国に雌伏している多くの源氏が喜んで蜂起することを確信していたとされます。
長年不遇の時代を過ごしてきた以仁王は源頼政の申し入れを受け、1180年(治承4年)4月、自らを「最勝親王」と称して、諸国の源氏に向けて平氏追討の令旨を発令。
令旨は源義朝の異母弟で、平治の乱以降熊野に雌伏していた「源行家」(みなもとのゆきいえ)によって各地へ伝達されました。源行家は令旨が出されたその日に京都を立ち、4月末には山伏の姿に扮した源行家が伊豆の源頼朝のもとに到達。
源頼朝は、武神で源氏の氏神である「石清水八幡宮」(京都府八幡市)を遙拝(ようはい:遠く離れた地から参拝すること)し、令旨を拝読したとされています。各地の源氏一族に令旨が届けられるなか、平氏派と源氏派に二分していた熊野三山を統括する熊野別当のひとり「湛増」(たんぞう)の密告により、5月初旬には以仁王の令旨が平氏側に露見。
これにより以仁王は朝廷の中枢にいた平氏に皇族籍を剥奪され、源氏姓に臣籍降下させた上で土佐国(現在の高知県)への配流を決定します。同時に、検非違使別当「平時忠」(たいらのときただ)により三条高倉邸が襲撃されましたが、以仁王は脱出し、屈強な僧兵が多くいる「園城寺」(滋賀県大津市)へ逃れました。
このとき、以仁王は反平氏勢力である南都の寺院「興福寺」(奈良県奈良市)や比叡山延暦寺にも協力を仰いでいます。その夜、源頼政が園城寺に合流し、以仁王と共に1,000騎あまりの兵を率いて興福寺へ出立。しかし、平氏の将軍「平重衡」(たいらのしげひら)、「平維盛」(たいらのこれもり)ら追討軍が追い付き奈良入りを阻止されてしまいます。
追手があるなかでの夜間の行軍に、以仁王は何度も落馬。一行は宇治橋の橋板を外し、やむを得ず「平等院」(京都府宇治市)で休息を取ることになりました。翌朝、宇治川を挟んで両軍が対立。平家物語において、この戦闘は「橋合戦」と呼ばれています。源氏軍の強力な僧兵達の奮戦により平氏軍も攻めあぐねていましたが、平氏側に付いた武士「足利忠綱」(あしかがただつな)が宇治川に馬を乗り入れると平氏軍もそれに続き、渡河を強行。
源頼政は以仁王を逃がすために宇治橋を捨て、平等院に籠って激しく抵抗しましたが、兵力差によって敗北しました。以仁王は30騎を連れて平等院から脱出しましたが、平氏家人「藤原景高」(ふじわらのかげたか)の軍に追い付かれ、光明山鳥居前(京都府木津川市)で討たれたとされています。
以仁王の挙兵は計画の露見により失敗し、討死してしまいましたが、この出来事は各国に散らばった源氏一族を奮起させ、反平氏勢力の声を一層高めました。
「石橋山の戦い」を皮切りに各地で挙兵されていき、6年間にわたって続いた「治承・寿永の乱」の発端となったのです。関東の源頼朝に次ぎ、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信義」(たけだのぶよし)や信濃国(現在の長野県)の「木曽義仲」(源義仲)も相次いで挙兵。
「富士川の戦い」や「倶利伽羅峠の戦い」、「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」などを経て、平氏一門は滅亡しました。鎌倉に幕府が開かれ、武士の時代が訪れることになったのです。
また、以仁王の死後、源頼朝は関東支配の名分として以仁王の令旨を利用し、元号が寿永に改められてからも前年号である治承を用いていたとされます。
以仁王の墓は、京都府木津川市にある「高倉神社」に存在します。以仁王はこの地で矢に当たり、命を落としたとされており、のちに高倉神社の祭神として以仁王が祀られたことがこの神社の起源です。
お墓は以仁王の死を悼んだその土地の人々によって作られたとされており、近くには京都から以仁王に追従し、橋合戦で活躍した僧「筒井浄妙」(つついじょうみょう)の墓と伝わる「浄妙塚」も存在。以仁王の墓と浄妙塚はともに、現在宮内庁によって管理される陵墓となっています。
以仁王ゆかりの地として、他にも京都府綾部市にある高倉神社や福島県下郷町にある高倉神社が存在。どちらも以仁王を祭神に祀った神社で、以仁王に関する伝承が残されています。
京都府綾部市の高倉神社における伝承では、光明山寺の鳥居前で亡くなった以仁王が、本当は矢傷を負いながらも逃走し、この地で落命したとされているのです。
一方福島県下郷町の高倉神社には、以仁王が家臣数名と共に宇治からこの地へ落ち延びてきたという伝承が残されています。皇族であった以仁王は顔があまり知られていなかったため、東国にて生存しているのではないかという説が流布していました。